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 大きな荷馬車は髭の男が手綱を引き、男が少女を挟んで座った。髭の男は渋い顔をしていた。少女は楽しげに男に触れていた。見知らぬ男にじゃれあう娘を見るというのはなんとも落ち着かないものなのだろう。時折何か言おうとして止めるのは優柔不断か、商人としてやっているのだから娘の自由も考えているということなのかもしれない。馬を友として旅を生業とするには早すぎる。まだ幼い頃の自分がそうさせるのかもしれない。

「名前は?」

 前を向いたまま髭の男が尋ねる。

 男は申し訳なさそうな顔をして左手で首の裏を掻いた。

 偽名でも構わないはずだ。それでも、この二人に嘘をついてまでそうしたいとは思えなかった。少女に嘘を教えるのは自分の役目ではない。

「そうか」

 髭の男は察したように言った。

「何も憶えていないのか?」

 男は髭の男の顔を見た。髭の男は本当に悪く思っていないのだろうか。名前を言えないのではなく憶えていないのだと、本気で思っているのだろうか。騙らないだけマシ、そういうことなのかもしれない。

「ええ」

 沈黙が流れる。そんな中にあって、少女は男の右手をしきりに触っていた。特に汚れてもいない、かといって美しいとか肌触りが良いといったこともないだろう。それでも物珍しく、形を確認するように、それがそこにあることを確かめるように触れている。

「その子は目が良い」

 髭の男が呟くように言った。持たざる者の羨望と教示者としての俯瞰が感じられる。髭の男は少女を見て、それから前の空を見た。やがて自分を超えていくのだという実感があるのだろう。娘の将来は自分よりも広がっているのだと信じ、祈っている。同時に、娘が許すのだからまともな男なのだろうと信じたのだ。海千山千の世を渡り歩いてきたのなら小石と侮るなかれ、行き倒れの男だからと情けをかけるのも躊躇うだろう。そんな自分を戒めるように、娘の無垢を信じているのだ。

 きっと、スーウェンのこともそう思っているのだろう。魔女の濡れ衣を着せられた聖女。四精を操る力は神の業なのだと。人一人が扱うには大きな力だ。

「娘さんですか?」

 男は遠慮がちに言った。

 娘であるなら妻もいるはずだ。しかし、馬車には二人きり。死んだのか逃げたのか、あるいは逃げられたのか。商人として成功しているのなら構えた家を守っているとも考えられる。しかし、恩人にそんなことを不躾に聞くというのはなんとも具合の悪いことだ。

「ミハージィ。私はシャジーチだ。あんたのことはなんて呼べばいい」

 娘だという肯定も否定もない。素性は明かさないということなのだろう。

「あんたとかそっちとか。悪口でなければ文句はないですよ」

「そうか」

 シャジーチは少し表情を緩めた。悪さをする輩というのは口数が多すぎるか、少なすぎる。どちらにしても話にならない。会話の成り立つ相手というのは良くも悪くも筋が通っているものだ。そういう意味では信用できる。

「本当に何も憶えてないのか?」

 シャジーチは横目で見ながら尋ねた。

「春から一冬超えて歩いたってのは憶えてますよ。どの山がなんて名前だったかなんてのはさっぱりですけど。あとは狼に囓られたことくらいですかね」

 男は頭の中を巡って思い出をかき集めた。土や空、朝や夜がぐるぐると回り、混ざり合っていてなんとも言い難い。日々変わりゆく景色を伝えたところでそこに男はいないのだ。唯一語れる思い出はスーウェンと過ごした時間くらいなものだろう。しかし、それを語っては森を歩いた意味がない。

「本当? 本当に囓られたの?」

 ミハージィが目を輝かせながら男の顔を見て尋ねる。シャジーチも大袈裟な嘘だと思っているようだ。表情を緩ませて娘を眺めている。

「ああ、ここら辺をね。よほど不味かったのかすぐに離れていったけど」

 右肩の付け根辺りを叩きながら答える。

「本当に囓られたのか?」

 シャジーチが問う。

 無理もない。荒唐無稽な話だ。一口囓って不味いから逃げるなんて話は子供向けのおとぎ話でもない。狼が美味いだの不味いだのという話も眉唾ものだ。

「ええ。あれは夏の夜でしたね。暑いからと上着を脱いで寝ていたのを憶えてますよ」

 ミハージィが右肩を叩く。傷が深いわけでもなく、今はなんともない。

 それよりも不思議なのはミハージィが触れても痛みを感じないことだ。スーウェンは気を失った。狼も深く噛みつくことができずに逃げていった。それでもこれだけ触れていられるというのは痛みを感じないと考えるのが自然だろう。それがミハージィだからなのか人の子であるからなのか、はたまた女の子であるからなのかはわからない。

 シャジーチは娘が痛みを感じないことを知っているのだろうか。それとも、今この時だけは痛みが外に漏れていないということだろうか。


「一つ、聞いてもいいですか?」


「なんだ?」

「ミハージィは火傷しても泣かなかった。なんてことはありませんでしたか?」

 シャジーチは驚きを隠さず男を見た。

 なぜそんなことを聞くのか、なぜそんなことを知っているのか。男は自分達のことを調べ上げてここにいるのではないかという不安が見て取れた。

「なんで知ってる」

「そんな気がしたから、では納得できませんよね。なんと言えばいいのか」

 男は左手で項を押さえて考える。

 どう話を組み立ててもなんとも信じがたい話にしかなりそうにない。

「狼の話をしましたよね。あれは不味かったからではなく、痛かったから。今ミハージィが触っていますけど、本当は気を失うくらい痛いはずなんですよ。ああ、何かしてるから痛いとかそういうことではなく、憶えている最初からそうなんですけど」

 シャジーチは男に触れようとしたが男は身を翻して避けた。

「構いませんけど馬車を止めてからにしましょう。気を失うと危ないですし。今は痛くないというならそれはそれで構いません。なんだったら狼の歯形はお見せしますよ」

 シャジーチは鼻を鳴らして馬車を止めた。

 手綱を木に括りつけ、腕組みをして男の方を見た。男は座り、シャジーチにも座るように促す。ミハージィは男の肩におぶさるようにしてじゃれている。

「握手をしましょう」    



 シャジーチは仰向けに倒れた。



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