16
16
独り歩く森は広い。そのうちに森から外れてしまうのではないかという男の考えはとうに消えた。塔の森は広い、外の森は更に広いとスーウェンは言った。枯れ葉枯れ枝の割れる音、かさかさ、ぱき、かさ。土の音。延々と繰り返される不規則、なぜ動かしているのかわからない脚、なぜ動かせているのかわからない。倒れ、雪に埋もれ、どれだけの夜を過ごしただろう。火を忘れる。否、温もりを忘れることなどできない。単に冷たさに慣れてしまっただけ。冷えきった体がなにも感じないというだけのこと。俯せに倒れた男は土に息を吹きかけ、仰向けになる。体が動いているのか視界が動いているのかわからない。感じられるのは空が見えるということだけ。顔に触れた雪が溶けることもない。生きていることの神秘を感じながらそれを見ている。
眩しさから逃れるように右手の甲で顔を覆う。焼き付いた眩しさが意識を深いところへと追いやっていく。体の奥の奥、遠いところで痛みが疼いているような感覚。自身が無限の広がりに感じる。この小さな体が地の底を抜けるような、森を満たすような、全てであるように感じる。瞼の裏の暗闇が溢れている。
意識が波打つ。小さな、滑らかな波。中心に残るのは息を吐ききった後の静かさと空虚。
弱々しい木漏れ日が指先を照らしている。温かいと感じる少し前のじりじりとした感覚。体の冷たさが温かさを拒むような。
男は天に息を吐く。白く煙ることもない。
「おい」
近くで聞き慣れない男の声が聞こえた気がした。あの世からの迎えというのは案外そんなものなのかもしれない。華やかな美女や天使などはおとぎ話。あるいは、英雄の華やかな凱旋だからこそ。どれだけの人間が今日という日に、今という時に倒れているのか。死者を運ぶ何者かがいるのなら、それは髭を蓄えた荷馬車の主。日々に擦り切れた初老の男。のんびりと寝られては仕事の捗らないこともあるだろう。
男は考えながら上体を起こした。冷たい体が軋み、痛みが帰ってくる。辺りをゆっくりと見回す。気のせいだったのだろうか。
「あんた、生きてたのか」
髭の男が木陰から顔を出した。いかにも旅姿の商人といった風体で人の良さそうな顔をしている。しかし、いかに人が良かろうとこんな場所で倒れた男に声を掛けるなどということがあるだろうか。死んでいれば身ぐるみを剥ごうとでも思ったのか、あるいは、スーウェンの世話をしている商人だろうか。
「道に迷ったのか?」
髭の男は少しばかり距離を取って近づいてきた。それが逃げられるだろうと思える距離なのだろう。こんな場所で行き倒れを装った盗賊などいるはずもない。それでも警戒するに越したことはないと思っている。賢い男だ。
首を横に振って返事をする。
「じゃあ、なんでこんなところで」
「どこに行こうとも思っていないから、では、納得できませんか?」
髭の男は腕を前に組んで鼻を鳴らした。訝しむのも無理はない。冬の森、それも魔女の森と呼ばれるような場所で昼寝もないだろう。置き去りにするか連れて行くか、そんな風に悩んでいるに違いない。
「動けるのか?」
「ええ」
どうやら置き去りにすることにしたらしい。別に非難するつもりはない。これからどこまで世話ができるともしれない輩、馬の骨よりも出所のわからない男を連れ歩くなど正気の沙汰ではない。商人であるならば尚更だ。スーウェンの言っていた商人であるなら娘もいるだろう。こちらがどんな人間であろうともその判断を責めることはできない。
男は何も言わず、目を閉じて元のように倒れた。誰かが傍にいるというのはそれだけで落ち着かないものだ。それが出会ってはいけない誰かなら尚のこと。髭の男が早く離れてくれればいいのにと思っていた。
「あっこらっ」
歩幅の小さい足音が走り、躓く。
胸に重いものが打ちつけられる。
「がはっごほっ」
思わず上体を浮かべ咳き込む。胸を押さえ、打ちつけられたものを見る。銀髪、小さな頭。この娘は美しく育つのだろうな。直感が過ぎり、それを表に出すのはまずいと表情を隠す。傍に落ちた大きなつば広の帽子を拾って差し出す。年は十に届くだろうか、幼い。
少女は何事もなかったように立ち上がり帽子を受け取る。
少女は少しだけ口を開き、男の手を包むように触れた。何か新しいものを見つけた子供のように男の頬を撫で、男の輪郭をなぞった。
何事もなかったように。
澄みながらにして深い青がこちらを見ている。旅姿の男が少女の服を叩き、怪我はないかを確かめる。旅姿の男は言葉に迷い、気まずそうな顔をした。
―― 何事もなかったように、少女は立ち上がった ――
「痛くなかったかい?」
少女は頷く。
「この人、置いていくの?」
少女は髭の男に向かって言った。髭の男は頭を掻いて困った顔をした。




