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 静かな秋だった。胸が騒ぐこともなく、森が荒れることもない。時折雨が降り、乾く。されど涙は流れず。スーウェンの心にあるのは不思議な静穏を俯瞰している靄のような自身の像。以前は一言も交わさず並んでいる関係など想像もしなかった。もっと激しく、迷いを置き去りにするような激情がそこにはあるのだと思っていた。或いは、そこにはあるはずなのかもしれなかった。しかし、それを感じてみたいと思う反面、それは今の自分とは相反するものなのだという実感も伴っていた。思い煩うことのない静穏を失うことは耐え難く、今まさに思い煩い始めているのだと感じて首を小さく横に振る。隣にいる男は知ってか知らずか、表情を変えることもなく静かに立っている。

 紫の実を枝から外し籠に入れる。虹色の果樹園。誰が造ったのか。シャジーチも見つけただけだと言っていた。それが本当なのかはわからない。季節を選ばず実をつけ、枝枝がそれぞれ競うように甘みを増す。時折突き抜けるような酸っぱさを感じることもあるけれどそれはそれ、香りもそれぞれ。魔女も飽きることはなかっただろうと思える。魔女は全てを考えて造ったのだろうか、それとも、神が創るに任せたのだろうか。思い描いた味や香りだけではこの木は創れないだろう。仮に魔女が創ったとして、だから魔女は飽きてしまったのだろうか。ここに魔女がいない理由。魔女は旅に出たのかもしれない。想像の、孤独の限界。どれだけ独創的であろうとも自分を超えることはできない。自分の中にあるそれを形にしたところで満たされたのは空腹だけだったに違いない。創り出すことは模倣でしかない。最初の創造は想像だ。空想をどれだけ複写して並べたところで代わり映えしない。新しい何かを探して旅に出たのだろう。

 籠の中で止まった手に黄色の実が渡される。手に収まる大きさの薄皮一枚隔てた果汁袋。鼻を近づけてみても香りがない。きっとこの果汁に味はない。水のようで水でない不思議な液体。きっと魔女も困り果てたのだろう。自分を満たすために必要なものはなんだろうと考え尽くした果ての果てがこれだ。稀にある色だけの果実。

 きっと満たされはしなかっただろう。

 スーウェンは寂しげに微笑み、男はそれを見て僅かに視線を落とした。知らない誰かのことを考えているのだろう。思い出と空想の入り交じったそれに水を差す気にはなれない。それとも、黄色の実が良くなかったのだろうか、魔女の木をそれほど知っているわけではない、食べるのに向かない実もあるのかもしれない。

 男はゆっくりと黄色の実を掴んで口に運んだ。

 スーウェンはそれを目で追うことしかできなかった。ぼうっとしていた、男があまりに自然な動きで止めることができなかった。口は小さく開いたが言葉が出ない。

 男は一口にして袋を噛み千切った。

 膨れた頬が子供のようで可愛らしく、スーウェンは笑った。

「ふふ。味、しないでしょ」

 薄皮も果汁も、なんの臭いもなく味もない。しかし、男は確かに痛みが引いていくのを感じた。苛む小さな痛み、動きを歪めようとする鋭い痛み。常に感じる頭の奥の暗い靄が晴れていく。今食べた実はどれだっただろうか、男はスーウェンの言葉を受け取る余裕もなく魔女の木を見回した。同じものは一つとしてない。似た色、似た形、臭いがわからない。甘ったるい香りが満ちたこの世の楽園。平穏な楽園が煩わしく感じられるのはこんな瞬間なのだろう。極彩色の快楽に塗れても苦痛を消せはしない。

 男の涙が流れた。何が悲しいわけでもない。ただ、流れていた。大粒の涙が頬を伝い落ちる。男は大きな息を吸って吐く。涙を拭うでもなく天を仰ぎ瞼を閉じた。小さな風の音が聞こえる。ひゅうひゅうと鳴っている。どこか遠く、あるいは、体の奥底で。

 スーウェンは言葉を続けることができなかった。男は何を感じているのだろう。そんなにあの黄色い実が美味しかったのだろうか。男がそんなことで涙を流すとは思えない。耐えられないほど不味かったのだろうか。そんなことに耐えられないとも思えない。 

 言いようのない悲しみがそこにはあるのだろうか。

 スーウェンは男が食べた実を探して見回した。色だけの果実。臭いも味もない、同じ色でなければならないだろうか。同じものがないことは知っている。来年の今頃を探すしかないのだろうか。私も食べてみたい。もう一度、それが同じものかを確かめたい。

 男は吐いた種をポケットにいれた。それが同じ実をつけると思いたかった。それにどれほどの時間が掛かるのかは考えたくもない。流れる涙が止まってしまえば痛みが戻ってくる。理由のない確信が気持ちを焦らせる。焦っても何も変わらない。それでも、消えた痛みが戻ることには耐え難い。耐えるしかないとしても、耐えられるとしても、意識は痛みを感じ続ける。そうなると決まっているわけでもないのに。そうなると知っているわけでもないのに。きっとそうなるのだと諦めている。どれだけそれを考えても期待することができない。最後の一滴が土を濡らす。奥底から湧き上がる痛みが諦めを肯定する。冷静で冷淡で、抗う余地のない運命なのだと。見えた希望に縋るしかないのだと。

「その、どうしたの?」

 スーウェンもそれが味の良し悪しではないことくらい理解できた。男が何に涙を流して種を取って置いたのか、あの黄色い実にどんな意味があったのかを知りたかった。

「痛みが消えたんだ。涙が流れて」

 男は何が悲しくて泣いていたわけではなかった。ただ涙が流れて痛みが消えた。それだけだった。言葉にすればそれだけの話だった。渦巻くものを知らなければ。

「その種」

 スーウェンは渦巻く痛みを思い出しながら言った。あれがもし同じもので、男の中を渦巻いているのならそれは当然のように思えた。一時であれ、あの痛みが消えるなら。

「大事に育てましょう」

 男は小さく頷いた。表情は暗く、きっと別の実がなるのだと信じていた。今にも泣きそうになりながら涙が溢れることもない。


 悲しくもない。

 負け惜しみでもない。

 諦めだけが男を支えているのだ。

 時折輝くだけの希望を見てはいない。

 男はそれに背を向けて立っている。前にも後ろにも進まず、ただ懸命に立っている。




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