13
13
スーウェンは袖に顔を埋め、男は虚空を見ている。スーウェンは男の沈黙を破る気にはなれず、時折男の顔を横目に見ては俯くのを繰り返す。衣擦れ、枝葉の波、遠く響く鳥の声。洞へ差し込む光の中を小さな埃が輝き漂っている。その場には誰もいないような穏やかな空気の流れ。眺めている誰かすら忘れさせる。
わからない
男にはわからなかった。自分が悲しそうな顔をしていることが、悲しそうな顔に見えることが。特に表情を変えたつもりはなく、どこが歪んでいると感じることもなかった。
ただ、確かに胸の内には渦巻くものがあった。暗い靄のようでもあり、透明な魚のようにも感じられた。うねり、時にのたうつもの。それを悲しみと呼ぶのだろうか。
男は目を閉じてゆっくりと息を吸った。じわりと滲む感覚が痛みと混ざり合った、外側の痛みと内側の滲み、それらが混ざり合うところの痺れ。穏やかさと痛みと、不思議な心地よさが息を詰まらせる。自分が何を感じているのかわからなくなる。
叫びたい。男は明確にそれを感じた。とにかく大声を上げて、その後の静かな空気を感じたかった。誰もいないのだと感じたかった。最初の記憶から初めての衝動。しかし、傍にスーウェンがいるのだと思うとすぐにそんなむず痒さも消えた。
大きく吸った息を吐くことができない。にもかかわらず、それは自然と抜けていった。男はそれを吐いたとも抜いたとも感じず、そうしたとも思えなかった。自分の体すら自分に逆らうのか、そう考え、この考えが自身に逆らっているのかもしれないとも考えた。
自分とは一体なんなのだろう。
この体が自分なのか?
体の感じるものが自分なのか?
考えているこれが自分なのだろうか?
全てが自分だと感じられる。それは多分、正しいのだろう。なにもかもが思い通りにならない、なにもかもがわからないとしても。この、わけのわからない感じも自分なのだ。
諦めるしかない。
何を諦めるのかもわからず、男は長く細い溜息を吐いた。いつ吸ったのかもわからない。
わからない、わからない。
吐き終わる頃、自分を理解する事の難しさを諦めるのだと感じた。自分がどうであれ、それを内側から理解する事などできはしない。そうすることができるのは外から見ることのできる誰か――。
男の視線は自然と隣に座るスーウェンへと向かった。視線がぶつかる。男は力を抜き、スーウェンの言葉を待った。語るべき言葉はなく、ただ他の誰かを知ることでしか自分を理解することはできない、沈黙こそが自分なのだと感じながら。
静かに佇む虚の影こそ
スーウェンからの言葉はなく、ただ力の抜けた微かな微笑みが見えた気がした。それは男の期待がそう見せたのかもしれない。
スーウェン自身、自分が微笑んでいるのだとは思っていない。ただ、男との静かな時間がなぜか愛おしかった。お互いに何も知らないに等しい間柄にありながら全てを知ったような気分が不思議と穏やかで心地よいと感じていた。スーウェンにとっても沈黙という静穏は自分自身に近く、それを破ろうとは到底思えなかったのだ。
独りの時間が長すぎたせいだろうか、昔の自分は今と比べると騒がしく笑っていたような気がした。良く言えば明るい、年相応に姦しい農家の娘だった。どれだけの季節が過ぎたのだろう。何度も冬を越えたような気がする。しかし、冬の記憶はどれも同じようなものではっきりとは思い出せない。自分は寒さに凍えることはないのだと知り、その気になれば土塊を纏って生きていけるのだと知った。飢えだけが唯一孤独を許さなかった。それさえなければ土に埋もれて楽園を夢見ていただろう。自らの墓を盛り、焼き固めて埋もれる。そこまで考え、それは死んでいるのと変わらないのだと思い至った。
飢え
生きようとする根源。腹を満たすという一点が生きることなのだ、なにかに満たされることを求めることこそが自分なのだと考えて心の中で首を横に振った。否、それは恐怖だ。死を感じることへの恐れ、全てを失うことへの怒り、頭の後ろのほうで時折疼く涙の塊。逃れられないそれだけが私を突き動かしている。死を望む私を生かそうとしている。私を飢えさせ、満たすように追い立てる。逃れられないそれから逃れようと走っている。
スーウェンは小さく笑った。男は僅かに首を傾げ、スーウェンの顔を見た。スーウェンは首を横に振り、大きく息を吸って吐いた。
「なんでもないの」
なんでもない。スーウェンは形の見えない恐怖に追い立てられている自分を笑った。情けなく、力ない、自分自身を笑ったのだ。
「そうか」
男は力なく相槌を打ち、目を伏せてから虚の外を見た。霧は眩しく、ゆっくりと漂っている。立ち上がり、洞の外へ出た。
日は昇り、高い枝葉が鳴っている。どこにいるともしれない鳥達の泣き声が谺する。痛みと痺れが涙を流させる。冷たい空気の流れと日の光が体を震わせた。
温かく肌寒い清んだ時間。
続く足音に振り返る。スーウェンは震える自分を抱くように体を擦っていた。滲む震えは同じものなのだろう。同じでなくとも、近いものなのだろうと男は思った。
「いい朝だ」
男の呟きにスーウェンは空を見る。枝葉の隙間から青く清んだ空が見える。木漏れ日は遮られてなお温かい。頷き、呟くように続ける。
「ええ、とっても」
無為に過ぎる時間。追われることのない日の下を二人は歩く。




