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一面の黒
スーウェンの意識は一面の黒の中で手足を緩やかに動かし、泳ぐように漂っている。それは全て意識的なものでしかないにしても、スーウェンは自身を感じていた。拳を握ったり開いたりしながら自分を探している。
一面、といっても、それは主観的な一面でしかない。自分がどんな形だったかも思い出せない私が、黒い……闇のようなものを見ている。闇とはなんだっただろうか、瞼の裏側のようなものであるとも思えるし、そうでないような気持ちもある。こんな黒を少し前にも見た。嵐の中を落ちていく夢、その底の底。沈んでいるのに浮いているような感覚。既視感。夢の中の出来事は夢の中でしか思い出せないような気がする。こうやって考えていることも、感じていることも。目覚めれば見えなくなる夢でしかない。黒い夢の中の私は、私なのだろうか。夢の中で見る掌はどこかぼやけている。はっきりと見えていると感じるのに、はっきりと見えない。思い出を遡ってみようにも、方法がわからなくなる。思い出そうとしたところで全てが霧に呑まれているような感覚で埋まってしまう。
目覚めているときに同じことを考えてみても、それはやはり掴み所がない。霧の中へ分け入っていき、いつのまにか霧が晴れてしまう。
私は私だと思えるのに。
霧の中へ入れるのは私だけ。この世界は私の世界。閉じた世界の私、私の閉じた世界。もう一人の私と同じはずなのに違う私。もう一人の私を思い描いてみてもはっきりとした姿形は見えてこない。不可視の靄が私を模ってそこにいる。それでも、私はそれを私だと感じている。この非現実をなんの違和感もなく受け入れている。
非現実――この黒はいったいなんなのだろう。私の夢だというのなら、それは私の中で生まれたのだろうか。違う。私の中で生まれたものなんて一つもない。私が生み出したものなんて一つたりともありはしない。四精は世界に既にあり、万物はそこにただ生きていた。私はそれを見、それを感じ、ただ私の中でのそれとして憶えているだけだ。
そうか。この黒は何も生まれなかった私自身なのかも。
空虚がスーウェンの心を満たしていた。夢の中の心が。奥底などありはしない。ただ全てが無意であり流れ去るものなのだと感じていた。信じているといえるのかもしれない。本当は全てに意味があるのかもしれない。それでも、意味などないのだと信じたかった。全てに意味があるのなら、あの苦しみは、あの痛みは、いったいなんだというのだ。
神の意思が私を苦しめていたなんて信じたくもない。私の苦しみを望む神などいない。
スーウェンは神を信じていた。神を信じていたからこそ、神が与える苦しみを試練だなどと思いたくはなかった。それが日々の暮らしの些細な苦しさや少々の面倒程度であったなら違ったのかもしれない。神の名の下に行われる一方的な断罪を、神の意志だとは思いたくなかったのだ。彼らにも神がいるのかもしれない。それでも、彼らの神とスーウェンの神は違うものになってしまっていた。
涙が流れている気がする。涙が流れていたいつかを思い出しているだけなのかもしれない。泣いているのか泣いていないのかわからない。悲しさからか、痛みなのか、苦しみや虚しさか、あるいは、その全てが混ざり合った靄のような意識が自分なのかもしれない。
スーウェンは黒い夢の中を沈み、底に横たわるようにして目覚めた。
眼の奥から涙が滲んでいる。溢れそうになるそれを堪えるように、あるいは流れてしまうことを期待して、ゆっくりと呼吸しながら瞬く。
暗い洞の中。体が動かない。重苦しい意識のせいだろう。強く動かそうと思えば動くはずだ。それでも、強く動かそうという意思が足りない。預けた背の微かに擦れる感触。投げ出され、微かに閉じた掌が土に触れている。指先で撫でるような錯覚。指を動かそうとするイメージが額の裏で流れる。焦点の外れる視界を感じる。意識を強く持たなければならない。意識を、強く。
スーウェンは口を開いて大きく息を吸い込む。吐き出すのに苦労しながらゆっくりと吐き出し、肺が空になるまで吐き続ける。苦しさが胸を動かし、背筋に熱が走る。ゆっくりと拳をつくり、親指の腹を爪で掻いた。
二度三度切れた息を吸い、胸を張るように背筋を伸ばす。誰かを抱き留めるように自分を抱き、滲む涙の理由を探す。恐ろしい夢か、幻か。過ぎ去った思い出が胸を締め付ける。
気付けば、男が隣に座っていた。同じように背を預け、表情なくこちらを見ている。男は何を見ていたのだろう。寝ていた私を見ていたのだろうか。そこまで考え、スーウェンは男に触れたのだと思い出す。痛みに我を忘れ倒れたのだろう。男はそれを受け止め、今に至ったに違いなかった。
「私……どうなったの?」
スーウェンは戸惑いながら聞いた。靄の向こう側が思い出せない。男に触れたことは憶えている。黒い夢を見たことも。しかし、夢の中の出来事はもう思い出せそうになかった。
「倒れた。だからそこに座らせた」
男はそう言って顔を背けた。なにかしろの後ろめたさがあることはわかったが、それがなんなのかはスーウェンにはわからない。
「なんで」
男は恐る恐る視線だけを返す。何を責められようとも逃げ場はない。逃げる必要もない。ただ、自らの良心から逃れられず苦しんでいるだけなのだ。スーウェンに責められることなど恐れてはいない。彼女が何かを責めることを否定する気にもならない。
全てはそのように
男は嵐を眺めていた。自分の中で吹き荒れる嵐を。
「なんで、そんなに悲しそうな顔」
男は少し上の遠くを見て目を閉じた。答えられるだろうか。なにが悲しいのか、本当に悲しいのか。それを真実だと言えるだろうか。考えるほどに体の力が抜けるようだった。
「わからない」
スーウェンを救えると思っていた自分が情けないのか、スーウェンに救われるのかもしれないと思っていた自分に呆れているのか、わからなかった。
「わからないんだ」




