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塔の森を歩く。それ自体は初めての経験というわけでもない。ただ、明確にどこかへ向かうとなると話は変わってくる。あまりにも大きな塔の樹が無数に立ち並ぶ魔女の森は迷路と言ってもいい。大きすぎる塔の樹を見分けることは難しく、指標とするべきものがなにも見当たらない。木の根の形などは見る方向によって無数の形に見え、そのどれもが木の根として似たような形を持っている。木の幹に印をつけるにしても大きすぎる幹のどこへ印をつけたのかと一時探さなければ見当たらない。ささくれ立つような木の皮はそれだけで樹の個性を消してしまうのだ。通り過ぎていく旅人が木の皮を剥いで回るような手間をとれるはずもない。迷いの森。帰らずの森。真実はどうあれ、通り抜けることができたなら戻ることはない。曰く付きの魔女の森。
男はスーウェンの背中を見ながら考えていた。
四精を操る魔女。人知れず泣く女。しかし、独りだというのならあの家財はどこから手に入れたのか。そういえばスーウェンは商人がくると言っていた。商人は魔女の樹を知っている。それにスーウェンにも好意的であるはずだ。しかし、商人は商人であるが故にここで暮らすことはできないのだろう。この森に居を構えていたとしても客を待つわけにはいかない。この森にスーウェンを住ませたのは商人で、二人は協力関係にあると考えられる。商人からすれば自活できる可能性があり、欲をかいて裏切らないスーウェンは渡りに船だっただろう。たとえ魔女の樹を独占しても外の世界に戻ることはできないのだから。そういった意味ではスーウェンは運が良い。本人が聞けば怒るに違いないにしても。逃亡生活がどれほどのものだったかはわからない。しかし、結果としてここに生きている。
朝の森はまだいくらか影の濃い場所が多く、スーウェンが火の玉で照らしながら進む。ゆらりゆらりと空中を漂いながら泳ぐそれは鬼火のように見える。もし森に立ち入ってこれを見ることがあれば人は近づかないだろう。
火の玉に恐怖するのは人だけではない。近づきすぎてしまい驚いて飛んでいく鳥を何度か目にした。朝方の静穏を知っているのは人だけではないということだろう。
徐々に霧がかかる塔の森を歩き続け、やがて土まみれの塔が群生している場所に辿り着いた。一帯の塔の樹には人の頭よりも少し上まで泥が纏わり付いている。この部分だけ洪水にでもなったのだろうかと思うような奇妙な光景だ。
「ここ」
スーウェンは土壁に右手をついて振り返るようにして言った。そこには他の樹と動揺に泥が張り付いている。
男が小さく首を傾げて疑問を投げかける。
「見て」
固まった泥が砂のように崩れ、スーウェンの住処のような木の洞が現れた。洞の中には大小様々な壺や皿が重なり並んでいる。
「大したものだ」
男は表情を変えずに言った。
「でしょう?」
スーウェンは得意げに、次を語りたがっている。男は小さく頷いて促す。
「お皿は時々作るの。釉薬がある時だけだけど」
スーウェンは飾りの派手な卵型の薄皿を持って男に見せた。
「これは結構大変だったのよね。形を整えるのもそうだけど模様をイメージするのが難しくて。でも、綺麗でしょう?」
底面は三重の三日月高台、見込みには鳳凰を描いた飾り皿。白地に羽ばたく鳳凰が後光を纏っている。朱を中心に緑が混じり、淡い茶に入る光沢が金のように見える。
「ああ」
世が世なら大成したのだろう。美醜に疎い自分ですら素直に感嘆することのできる出来だ。スーウェンに対する敬意が胸に湧くと同時に、なんと巡り合わせの悪いことかと目を伏せる。もし神がいるならなんと底意地の悪いことだろうと男は思った。
「なに? お世辞はやめて欲しいんだけど」
男が目を伏せたのを見咎めてスーウェンが口を尖らせる。
「いや、皿はいい出来だと思う。これは本心だ。良し悪しはわからんにしても」
男は洞の中に立ち入って積まれた皿達をゆっくりと眺めて頷く。どれをとっても味のある皿だ。花や動物、単純な模様から幾何学的なもの、才知を感じるそれらを素直に素晴らしいものだと思える。
「じゃあなんで」
スーウェンは不安げに言う。
「神様も意地の悪いことをすると思っただけだ。目を伏せたくもなる」
スーウェンは男の言葉を聞くなり黙って目を伏せた。
今までを思い返してしまう言葉だった。神の教会がここへ追いやらなければ皿を作ったりすることもなかっただろう。なにかの偶然でそうなる可能性はあったにしても、そうなったとは言い切れない。農家の一人娘として普通の生活を送っていれば皿など作ることはなかったのかもしれない。今までの苦しみや孤独が才を磨き、道を作ってきたと考えるのは複雑な心境だった。昔を思い出し、投げ出したい気持ちを堪えて皿を静かに置く。
「悪かった。……気を悪くしたなら謝る。すまなかった」
男の言葉に嘘はなかった。誰かを敵に回したいと思うことはないし、相手がスーウェンでなくても傷つけたいとは思わない。それでも口にしたのは相手がスーウェンだからかもしれない。嘘をつきたくない。身勝手な本心からの言葉だ。
「そうね。……わかる。なるべく考えないようにしてた」
スーウェンは目を潤ませて天を仰いだ。すぐに引くと思っていた涙の波は溢れて止まらなかった。鼻を鳴らし、袖で顔を拭いながらスーウェンは続けようとした。
「もしも。……もし、も、なん、て、ない、の、に」
もう乗り越えたと思っていた。なんてことないと強がれると思っていた。でも、しゃくり上げてその先は言葉にならなかった。
男は申し訳なさそうに俯いて立っている。
滲んだ視界に映るただ一人の話し相手。スーウェンは男に抱きしめて欲しかった。幼い頃に父がそうしてくれたように。抱き留めて、頭を撫でて欲しかった。どうしてそうしてくれないのだろう。唇を噛みながらそう思った。男は父ではないから。それでも、誰かに受け入れて欲しかった。この怒りを、悲しみを、満たされない寂しさをわかって欲しかった。神に救われることすら望めないやるせなさを。
スーウェンはふらつきながら男の肩に顔を埋めた。男は動かず、ただそれを受け止めた。抱き留めることはなく、ただ、スーウェンが望むようにすればいいと受け入れた。
スーウェンの意識を痛みが包んでいく。なにがどう痛いのかすらわからない。瞼の裏の閃光が意識を焼くように弾けた。なにも考えられない。体が弓のように反り返り、暗闇に呑まれてしまった。最後に、体が崩れていくように感じて意識を失った。
男は後ろに崩れようとするスーウェンを抱きかかえた。気を失い、脱力しきった人間は重いものだなと改めて感じた。スーウェンは痛みを知っていたはずだ。こうなることもわかっていただろう。あるいは、憶えていなかったのだろうか。気絶するほどの痛みが彼女を包んだことを。だからこそ動かなかったということを。
男はスーウェンを洞の壁にもたれさせコートをかけた。塔の森を洞まで帰れるとは思えない。あの一瞬ですら気絶するほどの痛みなのだ。そう考えると下手に触れることはできない。一度はベッドまで運んだことを後悔した。
洞の縁から外を見る。霧は日を浴びて白く輝き、神秘を感じさせる光景が広がっている。右も左もわからず光の中へ消えていけるような気分にすらなる。
スーウェンを振り返り男は俯いた。助けることも救うこともできないもどかしさが男の中で渦巻き、溜息と共に漏れた。
「この美しさだけが神ならば――」




