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 土を抉る雨の音 


 蒸気の上がる音のような


 煮え立つ窯の雨 




 墓穴に流れ込む水


 溢れ流れる時のような 


 押し流される土塊




 廃れた共同墓地の一画 


 抉れた墓穴


 黄昏 




 それを見たのはどこだったか、いつだったのか。墓穴に流れ込む水を眺めながら男は考えている。夢か現実か。染みる雨は冷たく重い。


 朽ちかけ、穴の開いた服。くたびれた継ぎ接ぎの靴。泥を掴んだ掌。吹けば飛ぶような意識が大木のような体を感じている。僅かな震えにすら軋む木霊、痛みの反響。自分の知る痛みと同じものを離れて感じている。自分の体でないような錯覚。痛みは確かにある。痛みを感じている。痛みを眺めている。


 涙が流れ雨粒の中に消えた。それが温かかったのか冷たかったのか分からない。ただ、目元を熱く感じていたのだけは憶えている。何もかもが自由ならば、男はそこに立っているだろう。永遠に、朽ちるなら朽ちるまで。生きながら死んでいくはずだ。



 時が流れ


 雲が流れ


 暗闇の中を墓守は歩く




 踏み均されただけの土の道。右往左往しながら墓標の丘を登っていく。カンテラから漏れる光の粒が雨に打たれて流れていく。墓守の老人は零れ落ちていく光を何度も見返しては天を仰ぐ。頬に落ちた雨粒を拭い、涙を思い出した。同時に日々を噛みしめ、暖炉の火を思った。薪は湿気っていないだろうか。パンはどれほど残っていただろうか。変わらぬ日々の一幕。雨の日も、もう直ぐ終わる。

 暗闇の中に何かが立っている。男? 老人は身構える。墓を荒らすにしては格好が悪い。ぼろぼろのコート、下に来ている服がなんなのかも分からない。伸びるに任せた長い髪は水を吸って酷い有様だ。幽鬼か、そうでなければ病人の類。俯き、掌を眺めている。道具も持たず、掘り返した土を眺めている?


 それは老人にも初めての体験だった。墓標に刻まれた名も少なく、副葬品などあるはずもない。墓荒らしなどあるはずのない場所だった。

「おい。ここで何をしている」

 老人が声をかける。墓を荒らしているのは分かっている。なぜこんな墓を荒らすのかが分からない。死者を冒瀆するためにか? 墓碑銘すらありはしないというのに。

 男はゆっくりと顔を向けた。壮年の男。彫りは浅く、取り立てたところもない。ただ、悲しげな表情は老人にも見て取れた。なにを悲しんでいるのかは分からないが、大きな悲しみが男の中にあるのだろうことは感じられた。なにかが失われた悲しみではない。悲しみが大きくなりすぎたのだろう。老人の胸にも悲しみが移っていた。

「そんな目で見んでくれ」

 男はまた掌をじっと見た。掌についた泥が少しづつ流れ落ちていくのを待っているように見えた。老人がそこにいることも、声をかけてきたことも忘れてしまったかのように。


 老人もそれを眺めていた。どれだけ立っていたのかもわからない。外套に染みた雨が体に触れ、身震いした。荒らされて困る墓でもない。埋めなおしてくれれば文句はなかった。奇妙で、関わり合いたくない。そう思いながら、ただ隣を通り過ぎることを躊躇していた。なぜそんな風に感じるのか分からない。漠然とした申し訳なさ、無私の呵責。重く沈んだ意識の裏側を羽でなぞられているような、妙な気分だった。


 老人は踏み出した。男の横を通り過ぎる一瞬、身構えた。しかし、男は動かず、老人は一息小さく吐き出して遠ざかった。妙な気分は次第に薄れ、丘の上に差し掛かる時分には別の考えが頭を埋めるようになった。


 果たしてあの男はあそこに居たのだろうか。墓荒らしなどなかったのではないか。明日になれば綺麗さっぱり何事もなく、いや、参拝者など元よりない。半年に一度や二度、罪人や病人だったものが運ばれてくる程度のもの。墓穴が一つ空いているからなどと何を気をもむことがある。あまりに暇だったから掘っておいたとでも言えばいい。言い訳をする相手がくるのなら。誰一人来るはずがない。


 老人は考えながら男が立っていた方を眺めた。小雨になっても夜は暗く、男も、掘り返された墓も見えない。明日は晴れるだろう。訳もなくそう呟いて坂を下る。来た道が見えないよう注意深く避け、何事もない明日を守り通した。


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