日常
口は災いの元、或いは口は禍の角。
と、まぁそんなことわざがあることからも察せるように、昔から下手なことを言って馬鹿を見たやつは一定数居たのだろう。
ありふれた、使い古されたと言ってもいいのに、未だに使い回されるこの言葉はやはり人間の、引いては口の本質を表しているからではないだろうか。
考えついたことをつい口に出してみたくなったり、相手が怒るとわかっていても、相手の気にしていることを軽い気持ちで弄ってしまったり。
たった今この瞬間も誰かがうっかり口を滑らせて、思ってもいないことを、思っていても口に出すべきではないことを吐き出してしまっているかも知れない。
丁度…今の俺のように。
「俺のどこがゴリラみてぇなのか言ってみろよゴラァ!!」
ガタイのいい男が、2回りほど小柄な男性に向かって吠えている。
有り体に言えばゴロツキ、不良、ヤンキーと言ったところだろうか。
日本人であることを否定するように髪色を光を反射して眩しい程の金に染め上げ、耳だけでなく鼻にまでピアスをしているその姿は一般的でないと言って差し支えないだろう。
そんな男に怯みながら自分の失態を思い出す。
とても単純明快でそれ故に弁解の余地もない失態を。
目の前を男が歩いていた。
前述したような如何にもと言った風体の筋骨隆々でさらに言えば強面の男が、だ。
今はいない彼らを友人と言っていいのかはわからないが、お調子者の本能というヤツだろうか。
つい頭の中に浮かんだその単語を笑いをとれるんじゃないか、となんの躊躇も思慮もなく、吐き出してしまった。
そこまでは良い。
いや、勿論良くない、良くないことなのだがそれでもそこまでは、そこまでなら良かった。
仲間内だけで他人の容姿をケモノに見立てて笑うという低俗な行為だったが。
あくまで仲間内、ということならなんの問題もなかったのだ。
たとえ委員長気質の奴がいて、注意されたとしてもそれでも大したことではないのだ。
問題だったのは俺の声量が大きすぎたのか、彼の耳が良すぎたのか、両方なのかはわからないがつまり、その呟きが届いてしまったことだ。
彼に向けた、しかし仲間内のみに向けた彼への悪口、罵倒、或いは中傷が届いてしまったことだ。
「何だんまり決め込んでやがんだ!!なんとか言えや!!」
男は胸ぐらを掴んで尚も威嚇を続ける。
しかしながら、どれだけ口が災いをもたらすとしても、口が要らないものか、と言われるとそうではない。
大事なコミュニケーション手段の一つである。
口がなければ困ることも沢山ある。
恋人と愛を囁きあったり、友と友情を確かめあったりと実に素晴らしい器官でもある。
古来より悪魔は舌先三寸で人を騙し誑かし、ささやかな願いと引き換えに、魂を搾取してきたらしい。
しかしその悪魔達よりも更に口の上手い者は、ささやかな願いを可能な限り大きく使い、更には魂をも守り抜いた。
口から紡がれる言葉には力があり、才能ある者は人の感情までをも鮮やかに操ってみせる。
「す、すいません!あまりにもゴリラみたいでカッコ良かったので、つい口に出しちゃってたみたいです!」
にこやかに明るく、それでいて申し訳なさそうに謝罪を口にする。
これ以上の怒りを生まぬように、その怒りを消すための言い訳に繋がるように。
「あぁん?ゴリラみてぇにカッコいい、だぁ?」
厳ついゴリラ男が怪訝そうな表情を向けてくる。
ここで間を開けてはいけない。
「はい!凄い筋肉に、男性らしい顔立ち、正にゴリラですよ!それによく勘違いされる方いらっしゃるんですけども、ゴリラ顔ってそもそも褒め言葉なんですよ。顔が大きかったりとか、顔のパーツが中心に寄っているみたいないくつかの特徴を表す言葉なんです。きっと僕みたいなひょろひょろな奴が悔しがって貶し始めたんですよ!みっともない!」
聞き取れる程度の早口でまくし立てる。
言葉の奔流に相手が圧倒されている内に、結論まで持っていく。
「あぁ、でも見知らぬ人に街中で突然イケメンだって言われても困りますよね?本当すいませんでした!」
お世辞を忘れずに勢いよく頭を下げる。
「お、おぉ。わかれば、いいんだよ…」
面食らった様子で絞り出すようにではあるが、許しは得たようだ。
「はい、すいませんでした!」
もう一度今度は軽く頭を下げると、足を進めた。
ゴリラ男も数度躊躇するように二、三度振り返るが、何か納得した様子で去っていった。
物珍しそうに取り巻いていた野次馬も次第に街並みに消えていった。