うめ
和モノ布教し隊の企画ものです。勢いだけで書きました。暖かい目でみてくださいませ。
いつからいるのだろう。自分自身でもわからない長い時を、わたしは生きている。
桃色の花が咲き乱れている。
年に一度の季節。庭の草木が春風に心地よく揺らぎ、庭の池が日差しを受けてきらきらと輝く。うららかな春の日が、わたしを迎えてくれる。
「今年も満開ですな」
感慨深げに呟く声が聞こえた。
「見事な仕上がりだ」「毎年毎年素晴らしい」「先祖代々、大切にされてきたんです。いつまでも美しく咲き誇ってもらわねば……」
この時期、わたしの眼下は騒がしい。たくさんの人間が集まり、地べたに布を敷き詰め、その上で飲み食いをする。春風に揺られ散り行く花弁を無邪気に追いかけ回す童たち。笑顔をたたえ酒を片手にわたしを見上げている大人たち。たくさんの、人間の目がわたしを射抜くのだ。静かな庭だけど、この日だけは特別だ。
賑やかなのは好きだ。
溢れる人と物。わたしは枝に座って見下ろすことしかできないけれど、見ているだけで楽しい気分になれる。集まる人間すべてが、わたしの美貌に酔いしれていると思うのも気分が良い。
微笑ましく人間を眺めていると、ひとりの人間に目に入った。
「……」
今の当主は何代目なのだろう。
まだ若い。すっきりとした顔立ちで、目鼻も整っている。妻に子にと、恵まれて当代も安心とのこと。何より、本人がすごく嬉しそうだった。
そんな彼を見ていると、ますます笑みが零れる。
「大きくなったな、あの子も」
少し前までは赤子だったのに。
春風が吹き抜ける。花びらが青い空へ高く舞う。
舞い散る花びらをたぐり寄せ、ふと思った。
その目に映らなくても、すぐに散り行く存在とわかっていても……。
見入ってしまうのはなぜだろうか。
「――おねえさん、誰?」
その声に、わたしは心臓が止まったかと思った――。
* * *
「……ぁ」
冷たい風が頬を撫でた。うっすらと目を開けると灰色の空が映る。ぼんやりと空を眺めてから、ほぅっと息を吐いた。
寒い季節も、もう終わりなのに今日は冷える。
体を起こし目線を落とすが、庭には人っ子ひとりいなかった。庭師たちもさっさと仕事を済ませて屋敷へ引っ込んでしまったのだろう。
寝ぼけ眼のまま、わたしは巨木のてっぺんからあたりを見渡した。
世の変わりようは凄まじい。
高い建物が多くなった。建物の煙突から黒い煙がもくもくと吐き出され、砂利道を車輪のついた鉄の塊が走っている。光陰矢の如しとはまさにこのことだろうか。あっという間に人間の世は変わっていく。
自分はなにひとつ変わらないけれど。
由緒ある華族の大屋敷、その庭。代々の家主が大切にし、自慢する大きな梅の樹。それがわたし。ずっと昔からあって、いつから存在するのかわたし自身も知らない。
小さく肩をすくめて、樹のてっぺんからふわりと飛び降りた。まだまだ開花の時期ではない巨木は裸同然だ。寂しげに揺れる枝木を眺め、胸が苦しくなる。もう少しの我慢だ、もう少しで暖かい季節へと移り変わる。宙を舞いながらそう言い聞かせていると、思い出した。夢を見たのだ。とても古く、とても大切な思い出だ。
「懐かしい……」
胸が熱くなる。長い時を生きる中で、あれほど心が躍ったことは無い。これから先は二度と無いと言い切れる。
だから……。
と、正門の方向から庭へ誰か入ってきた。
咄嗟に枝へ降り立ち、太い幹へと寄りかかった。そっと幹の陰から覗けば、侵入者はこちらへと近づいて来る。
長身の男だ。
山高帽を被り二重マントを羽織っているが中身は長着と袴、足元は長靴で固められている。使用人でも庭師でもない、知らない男だ。奇抜な格好をした男だがどこかのお大尽か、主人のご客人だろうか。それにしても品性を感じられないが。
考えている間に男はどんどんわたしへと近づき、そして見上げる。
男は樹の大きさに感嘆の息を吐いた。ただ、わたしを見に来ただけか。でも客人なら誰かの案内で来るはずなのだが……やはり、怪しい。
男はきょろきょろと首を回し、やがて首を上げた。
「……!」
そのとき男と目が合った。びっくりする、と同時に冷静に考える。それくらいよくあること。人間にはわたしのことは常に見えない。気にする必要もないのだが――
「こんにちは。君が……そうかな?」
「…………え」
男は微笑みかけたのだ。わたしに向かって。
「……えっ?」
心臓が止まるかと思った。あまりの驚きで枝の上にへたり込むわたしを、男は帽子を取って、慇懃に会釈した。
「初めまして。お嬢さん……って聞いてるか?」
無論聞いてない。
意味がわからない。なんで、どうして……疑問が溢れるばかりで言葉にすることができなかった。
すると男はこちらの顔色に気づき、肩をすぼめた。
「そう怯えなくても俺はただの人間だ。特異な家柄を除いては、な」
「な、ななっ、なんで……ッ」
男の態度は変わらない。わたしの疑問など意に介さず、男は歩み寄りそっと太い幹へ触れた。
「……ふむ。君はこの梅の樹の……精神だろうか」
――せいしん?
何を言っているか理解できなかった。茫然と男の旋毛を見つめていれば、男は思案をやめて、懐に手をやる。出てきたのは携帯用のキセルだった。銀細工のそれはたいそう高価そうで、男の身には余った代物に見える。眉間にしわを寄せていると視線に気づいたか、男は顔を上げた。
「どした?」
「なんでもないっ」
「そか」
慌てて首を横にやる。男は気にする様子もなくキセルを咥えた。
不思議な人間である。わたしのことが見えることも、それに対しての態度もまったく変わらない。慣れているかのような態度。樹の枝に座る少女を見てなんとも思わないのだろうか。何か大きな反応があっていいはずだ。
以前は、そうだった。
びっくりして、叫んで、樹から落ちた男の子を知っている。
ふーっと紫煙が舞い上がる。煙草の匂いにはっと我に返る。さきほどの沈黙でだいぶ落ち着いた。だからわたしは訊ねた。
「どうしてわたしがみえるの?」
「言ったろ、特異な家柄なんだ」
「……じゃ、この家の人間じゃないの?」
「無論だ。俺は、ここの家主に依頼されたから来たんだ」
「依頼?」
「ああ」
切れ長の目がこちらを捉える。やけに冷えた視線。その推し量るような視線にわたしはこくりと喉を鳴らした。ややあって、男はため息を吐く。
「杞憂だと願いたい」
「は……?」
首を捻ると男は樹の幹にもたれかかりながら続けた。
「端的に言えば、俺は祓い屋だ。だから君のような存在、すなわち人ならざる者を視認することができる」
「うん?」
「わかってない顔だな。まぁ、俺の素性などどうでもいい」
男はそこで言葉を切り、キセルを吹かす。それからわたしを振り返った男は妙に真剣な顔つきをしていた。
「君は、梅の樹だ」
諭すように低い声で言う。
「梅の開花は春。だからむやみやたらに花を咲かすものじゃない。君の花は、春に咲くものであって、真冬には咲かない」
その言葉に目を見張った。
「……あなた、そんなことで来たの?」
「仕事だからな。しかし、そんなことで切り捨てられるのは解せん。君の振る舞いは、天災と同じなんだが?」
「……」
「人を驚かすのはよろしくない」
「……」
――驚かせてやろうと思ってやったわけじゃない、わたしは。
そう言葉にしようとして、止めた。
なんだか、言い返すのが億劫になった。この男と問答する気分にはなれなかった。諦めにも似た感情が胸の中を渦巻き、気持ち悪かった。わたしは半開きの口を真っ直ぐに引き延ばして、ふいっと男に背を向けた。
男も口を閉ざす。沈黙の拒絶が返ってきて彼は困っているだろうか。こちらを眺める視線をひしひしと背中で感じた。
冷たい風の吹き抜ける音だけが耳を打つ。さわさわと枝が揺れ、煙草の葉の焼ける匂いが鼻をついた。そして男の吐息が小さく聞こえた。
「……人と話すのは、初めてか?」
ぞくりと背中が粟立った。同時に、脳裏に浮かぶたくさんの情景と思い出。かけがえのない宝物。心臓が痛いほど胸を打ち、呼吸が荒くなる。痛い胸元にぎゅっと両手を抑え込み、唇を震わせた。
「…………ある」
振り絞った声は蚊の鳴くようだった。それが男に聞こえただろうか。振り返る勇気もなく膝を抱えていると、
「そうか」
ため息を吐くように男が呟いた。
「君は俺みたいな奴じゃないと認識されにくいからな。見えた人間はさぞ珍しかったろうな。……何かあったか?」
男の声音が冷たくなった。害を被ったとでも思ったのだろうか。何もなかった。むしろ逆だ。とても幸福だった。
遠い昔の記憶が思い出されて、つい口をつく。
「あなたも、すぐにいなくなるんでしょ」
「うん? まぁ、ずっとここにはいれんな。俺はここの家の者じゃないし、依頼が無くなれば会う機会は無い」
「そういうことじゃない」
ぶんぶんと首を振ると、彼は考えるように右上へ視線を上げる。ややあって、こちらの言葉を理解したように「あー」と呻いた。後頭部を掻きながら彼は口を開く。
「……君からすれば百年などあっと言う間だな。だが仕方あるまい、人間はそれが限界なんだ」
何十年、何百年と見てきた。ヒトは儚い生き物だ。わたしの花のように強く咲き誇り、あっという間に散ってしまう。とても小さく弱い存在。
だけど――――。
「何か情でもあるのか? 人に」
「ある」
「そうか」
即答するも男は頷くだけ。それに愚弄も揶揄も無い。ただの相槌。それがやけに冷静さを取り戻されせた。そのおかげか、次の言葉はすぐに出てきた。
「ちょっと前に、みえる人間と会えた」
声が踊る。楽しかったあの時がどんどんと浮かび上がってきて、視界がぼやけ始める。
「あの子にしか、わたしはみえなかった。気味悪がわれていたけど、あの子は気にしないで、いつもわたしに話しかけてきた……たくさん話をした。他愛のない世間話やずっと昔の話とか」
「……」
「誰かと話せるなんて夢にも思わなかったからとてつもなく楽しかった。でも、いつの間にか、背丈も歳も大きくなって……本当にあっという間だった」
「……」
男は口を挟まなかった。紫煙がゆらゆらと空へ昇っていく。
「花が見たいって言ったの」
「ん?」
黙っていた男が反応した。そっと目を向ければ、こちらを見上げた彼と目が合って、睨み返す。
「あなたが初めに言ったことよ。あの子が、最後に花が見たいって言ったからわたしは花を咲かせたの」
吐き捨てるように言うと、男は眉をひそめて立派な幹へと目を向けた。
「無茶をしたな……寿命が縮むぞ」
「そんなの関係ない、あの子が見たいって言ったもの。わたしが答えてあげなくてどうするの」
結果は散々だった。蕾をつけ、開花したのは数えるほどだった。そして花が散れば頭は痛くなるし、身体の震えが止まらなかった。
それでも……。
大切にしたいあの日々をわたしは……。
「そうか」
男は頷く。声音が変わった。今までの淡白なものではなく、優しく暖かい。男は柔らかく口角を上げてわたしを見つめる。
「俺は、梅の樹をどうこうしようと思ってない。ただ、様子を見てほしいと言われただけだ」
何を笑っているのだ? 不快でわたしは顔をしかめる。
男はなおも愉快げに肩を揺らすばかりだ。
「俺もそれなりに人ならざる者と付き合いがあるが君のような部類は初めだよ。面白い」
「なっ、馬鹿にしてるなっ」
恥ずかしくなって顔に熱が籠もった。だけど男は悪びれる様子はない。嬉々としてキセルの灰を落として続ける。
「まぁ、なんだ、別れの時はいつかは来る。それよりもどうだった?」
「え?」
訊ねられた意味がわからない。また、目を丸くすれば男はようやくこちらを見上げて、ふっと微笑んだ。
「先代はどうだったんだ? 美しい花を見て」
――今年も満開だな。うめ。
甦る笑顔。しわくちゃの顔をもっとしわくちゃにさせて。その面影は子供の頃から変わらなくて。懐かしくて、愛おしくて、とても暖かくなって、そして悲しくなって……。
目頭が痛み、涙が滲む。
「もちろん、喜んでいた。とても嬉しそうで、最後まで……笑ってたわ……」
ああ、なんだろう。悲しいのに、どうして心はほんのりと熱くなるのだろう。心が軽くなった気がした。こんなに晴れやかな心地になれるなんて思ってもみなかった。
もしかしたらわたしは、ずっと誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
男は満足したように頷き、大屋敷の方へ目を向ける。
「君はこの家の守護神のようなものだ。誇りたまえ」
「神さま? わたしが」
「――ようなものだ。神とは違う。五百年も生きていない君を、神と呼べるわけもなかろう。
「あなた……! 一言多いって言われない!?」
「ははっ。元気の良い返事をもらえて、俺は嬉しい」
「返事って……わたし怒ってるんだけど……」
くしゃりと無邪気に顔を綻ばす男。そんな笑顔を見ていたら呆れて文句も言えない。むぅと膨れると、男は気にしないであっけらんと口を開いた。
「また、来る」
「は? なんで? 来なくていいわよ」
思わず怒鳴るが、男は熱心にキセルの灰を叩き落としていた。本当に自由奔放な男だ。キセルを仕舞って笑いながら言う。
「君は少し面白みがあるからな」
「なにそれ。わたし観察されてるの?」
「そんなことはない」
いやいや、と首を振ってから、真っ直ぐとわたしを見つめて、男は告げた。
「次は、満開の梅の花を見に来る」
目を見張る。
固まっていると男はくくっと喉を奥で笑った。
「また、口を利いてくれるか? お嬢さん」
その問いにわたしはすぐに答えた――。
了