後編
◇──◇
ある雨の日、“竜”が“希望”の部屋を訪れると、彼女は刺繍枠を手に、ぎこちなく針を手繰っておりました。
「どこでそんなものを見つけた?」
「使われていない部屋のタンスの中から……。この建物はわりと古いものなのですね」
一時手を止めて答える彼女の顔に、かすかな笑みが浮かんでいました。雨にかすんで景色が見えない日の、手慰みにはよいようです。
「元からあった城に我々が手を加えた……。アスガルド紀元前五世紀ころの物らしい」
窓辺に進み、答えるともなしに言葉を返す“竜”に、“希望”は首をかしげました。
「どうかしたのですか? いつもと違いますね。何か……迷ってでもおられるような」
「馬鹿な! なぜそのように思うのだ?」
「私はあなたをよく知っていますから。ずいぶん長い間あなたを見てきました」
それだけ返し、彼女は再び刺繍を始めます。事実、彼女が塔に囚われて“竜”と顔を合わせるようになり、ずいぶん長い時がたっていました。
「……誰の耳にも快いことを言う。『希望とは何か? それは娼婦だ。誰にでも媚びを売り、一切を貢がせ、幾多の宝石を──君の青春を犠牲にした時、彼女は君を捨てる』……」
誰かの警句らしい“竜”の言葉を受け流し、“希望”は刺繍を続けます。無心で針を進める少女は、澄んだ静けさに満ちていました。
彼女に背を向け部屋を出ようとして、“竜”は、ふと足を止めました。
「この俺が……永久に勝利し続けることは不可能なのかもしれない。だが忘れるな。施設の防衛戦が突破される時には、塔は地中に沈み、お前を永久に封じ込めるのだ……!」
予言とも覚悟ともとれるような言葉を残し、“竜”は部屋を出て行きました。“希望”は刺繍の手を止めて、窓の外の雨模様をながめます。
(可哀想な人……)
胸に浮かんだ思いは、言葉にはなりませんでしたが。
“竜”が彼女にしてきたことは、ほとんどが機構の指示によるもので、そこに彼自身の意志はないのです。そういう相手を憎むことは、彼女にとって難しいことなのでした。
◇──◇
夜半過ぎから始まった戦闘で、塔は圧倒されつつありました。四つの城門は反乱軍の手に落ち、城壁ごとに設けられた竜頭も、既に六機が破壊されていました。
ついに最後の戦いの時がきたのでした。塔を倒したのは敵のどの攻撃でもなく、たび重なる連打の積み重ねでした。その日までの戦闘で、塔は機能の七〇%を失っており、アスガルドからの支援も断たれていました。
四〇時間近く管制室で戦闘を指揮していた“竜”は、ついに単独での戦闘を断念しました。兵器を一時自動に切り替え、ロキとの緊急回線をつなぎます。
「──どうしました、“竜”よ」
「ロキよ、塔は現在敗勢にあります! 大至急援軍の派遣を要請します! 事態はきわめて深刻です!」
「敗れる」「できない」「助けてくれ」それは、“竜”にとっては決して口にしたくない言葉でした。しかし、自分の誇りに背いても、“希望”を逃さぬ事こそが優先されるべきだと判断したのです。……しかし
「……塔に援軍は送れません」
ロキの返答は短く、そっけないものでした。
「なぜです!? そんな……」
「全般的戦略見地からの結論です。塔の防衛は、最優先事項とは認められません」
信じられませんでした。信じたくありませんでした。自分が就いている職務は、アスガルドにとってきわめて重要であるはずだ、そう思って戦い続けてきた“竜”でした。
「ロキよ! ロキよ! この塔は“希望”を封じている砦です!!」
「反乱者に“希望”を渡さぬ手段が残っていないわけではありますまい? 塔の自沈装置を作動させ、地中深く埋めるのです」
ロキの迷いのない、事も無げな指示に、思わず言葉をつまらせます。
「……私は、どうなるのです……?」
「あなたの思考パターンは忠実にコピーされ英雄殿堂に迎え入れられます。そうして塔の戦士、“竜”の武勲は永久に語り継がれるでしょう!」
“竜”にとって、塔の自沈は覚悟していた事でした。殿堂に迎えられるのは、望んでいた事のはずでした。しかしそれは、全ての手を尽くして戦った結果であるべき事。最初から死ぬ事を、犠牲になる事を求めるのは、全く別の話であるはずです。それを同じと言うならば、全ての戦士は交換可能なネジ釘一本と変わりません。
しかしもう、問い返すことは許されないのでした。一度発せられたロキの答えは完全であり、修正されることはあり得ないのです。
「おおあぁぁぁぁぁぁぁ!!」
“竜”は戦いました。吠えるように焼け付くように戦いました。やり場のない怒りを、目の前の敵に叩きつけながら。
(愚か者が! 愚か者どもめが! きさまたちのためにアスガルドは変質した! 我らの理想は腐朽してしまった!!)
長い長い夜でした。反乱軍も幾多の犠牲を払い、しかし攻撃を止めようとはしませんでした。既に火矢が尽き、機関銃をまき散らすだけになっていた竜頭に、反乱軍の火矢が炸裂して崩れ去りました。彼らの間に大きな歓声が沸き起こります。
『戦闘機能停止。戦闘機能停止。自沈機能作動。自沈機能作動……』
「う……ううっ……」
倒壊した竜頭は、管制室をも破壊していました。導線からの逆電流に身を焼かれた“竜”は、火災を起こしかけている管制室からよろめき出て、塔の上、“希望”の部屋に向かいました。
らせん回廊を、足を引きずりながら登るうち、ふと“竜”の胸に追想がよぎりました。かつて若く生身の人間だったころ、機構の創設に力を尽くした日々が。人の世の不幸は社会の“未熟”こそが原因と信じて、おのれの宝石を──青春の日々を、捧げ尽くした……
「“竜”よ!」
部屋の入り口でよろめき崩れた“竜”に、“希望”は思わず駆け寄りました。体のあちこちが焼けただれ、彼にもう戦う力がないのは明らかでした。
「塔が崩れる……。地下に沈む前に逃げろ」
“竜”のかすれ声に、思わず息をのむ“希望”。
「なぜ……あなたが私を」
「バルコニーの位置はわかるな? もう障壁は消えている。あそこから脱出しろ」
「あなたは? あなたはどうなるのです?」
こんな時にさえ他者を気づかおうとする彼女に、“竜”の口元に暗い笑みが浮かびました。
「……俺は、この塔につながれている。生命維持装置は塔の側にあり、ここを離れては生きられないのだ」
彼の言葉に一瞬身を固めましたが、“希望”は強引に“竜”の手をとり、立ち上がらせました。
「何を……」
「逃げましょう、あなたも! そして代替の装置を探すのです!」
「ムダだ! やめろ!」
「私は“希望”! どんな時にもあきらめない! さあ早く!!」
それは彼女の存在する理由。無謀であっても、愚かであっても、変えられない彼女の本質。しかし……
「放せーーっ!!」
喉を貫く叫びとともに、“竜”は“希望”の手を振り払いました。
「“竜”よ……」
払われた腕を抱え、立ち尽くす彼女に、絞るように突きつけられた最後の言葉。
「どんなに強く想っても……叶わぬ望みが、この世にはあるんだ!! お前は俺の胸に、痛みを呼び覚ますだけなんだ! とっとと立ち去れ“希望”! 俺の前から消えてくれっ!!」
……“希望”は一歩よろめくように歩を引いて、そして彼の前から去りました。哀しげな瞳で、何度も振り返りながら。
それは呪いの言葉でしたが、彼女を解き放つものでもあったのです……
バルコニーは地震のように揺らぎ、沈下を始めた塔の破片が降り散っていました。“希望”は翼を広げ、大きく羽ばたかせると、手すりを蹴って虚空に身を躍らせました。長い長い間、たたまれたままだった翼。果たされないままだった約束。しかしそれは確かに風を捉えて、空高く舞い上がりました。
『“希望”が!』
『見ろ! あそこに“希望”が!』
全ての兵士が空を見上げ、歓びに満たされて立ち尽くしました。皆、泥だらけの顔を天に向け、自分が泣いていることにさえ気付いていませんでした。“希望”の翼から、まばゆい光が放たれて、夜明け前の空に輝きわたったのでした。
沈み行く塔の中で、“竜”は窓辺によりかかり外を眺めました。明け始めた東の空に、明けの星よりも明るく、“希望”の翼の光が見えました。その光景を確かめて、“竜”は老いた瞼を閉じました……
塔は崩れ地中に沈んで行き、後には瓦礫の山だけしか残されませんでした。
─ 終 ─
『希望とは何か?……』 ペテーフィ・シャーンドル(一八二三~四九 ハンガリー) 魯迅『希望』より




