【9】
ミラは昨日、アルヘナとお茶を共にした部屋に居る。
あれほどの魔術の後なのだから、部屋が大きく破損していてもおかしくないのに、何一つ壊れてなどいない。
不思議に思い、部屋を見渡していると「あれも、幻術ですのよ」と、アルヘナに耳元で囁かれる。
全ては幻術であると考えれば、頷ける。
昨日のミラは気を失っただけで、どこも怪我などしていないのだから。
そして、窓の外を見れば、黒い煙が空へと高く昇っている。
今、この部屋には、ミラ、アルヘナ、デネボラ、アルファルト、フォーマルハウト――レグルスの六人が居て、ミラはアルヘナの二人だけ少し離れたテーブルに座り、アルヘナは優雅な所作でお茶を口にし、ミラは大テーブルで行われている緊急会議が気になって仕方が無い。
「気にしても、始まりませんわ」
アルヘナはミラに声を掛けた。
「デネボラ様が我を忘れて魔力を爆発されるなんて…。レグルス様と伯父様とお父様、三人の結界が無ければ王宮は――いえ、この国リゲルすら、あの10年前のベテルギウスのようになっていたでしょうね」
いまや既に、ベテルギウスという名の国は無い。
ミラは青褪め、背筋に冷たい何かが掛けていくのを感じ、もう一度、窓の外の黒煙を見る。
あの庭園を一瞬にして焦土と化すほどの魔力を有する王妃殿下。
「わ、私がいけなかったのでしょうか?」
「ミラ様は何も。いけないのはレグルス様の方です」
「え?」
「レグルス様も、ミラ様の前では極普通に一人の男性という事なんでしょう」
「…アルヘナ様?」
「10年も待たれたのに、あと少しが待てないだなんて」
腕の中に居るヤモリをアルヘナは優しく撫で、気持ち良いのかウェズンは目を閉じて眠っているかのように見える。
アルヘナはミラの蒼白な表情を見て、ふふっと微笑む。
「レグルス様から永遠を頂いたのでしょう。魔人の血肉に代わるものを」
「…それは?」
「体液でも血肉と同じ効果は有りますのよ」
「!!」
見る見るうちに耳まで赤くなるミラの顔色を見て、アルヘナは楽しげに話し続ける。
「でも、未婚の女性は婚儀が無事済むまで、純潔を守らねばなりませんの」
「え?」
「貞節を重んじるこの国では、美徳とされていて――」
「!!!」
蒼くなり赤くなり、また蒼くなる。
ミラはアルヘナが話の途中にも関わらず、不躾に椅子から立ち上がった。
「ア、アルヘナ様…、私…」
フラフラと足取りも不確かな状態で、会議が行われているテーブルへとミラは歩いていく。
まるで魂が抜けてしまった亡者のように、ミラの青い瞳は輝きが無い。
アルファルド、フォーマルハウト、デネボラ、レグルスと四人に向い「……デネボラ…、さま…」と声を震わせ、大粒の涙をポロポロと零しながら声を発した。
「ミラっ!?」
誰より早くミラに駆け寄ったのはデネボラだ。
「ミラ!どうしたの?泣かないで」
「私…、私のせいで、デネボラ様が…」
デネボラはミラを優しく抱き留め、ミラもその柔らかな腕で身を小さくするばかり。
「ミラのせいではなくてよ。私がつい、カッとなって」
「いいえ、デネボラ様がお怒りになるのは当然です。わ、私、知らなかったです…」
この場に居る誰もがミラの次の言葉に耳を傾ける。
「――未婚女性は、婚儀を終えるまで純潔でなければならないなんて…」
ミラは、デネボラの胸に顔を埋めて、謝罪の言葉を口にする。
「知らなかったでは、済まされません。――レグルス様との婚約者として資格が…」
「ミラっ!!」
次に、叫んだのはレグルスだ。
いつも無表情で冷静さを欠く事のない人物が、ガタンと大きな音を立てて椅子から立ち上がる。
「所詮、私のような小さき存在が永遠を望むなど――」
「ミラ――」
この部屋の空気が、重く淀んでいく。
否、濃縮され、圧縮されていくような。
重力が増していくような感覚に襲われる。
身動きが取れない。
デネボラもアルファルトもフォーマルハウトも――。
膨大な魔力がレグルスに集まっていく。
少しでも気を許してしまえば、暴発しそうな大量の魔力をこの場に居る者は感じている。
それは、この王宮が、この王国が、この大陸が、全て消し飛ぶほどの存在してはならない凄まじい威力を持つ破壊の力。
このままでは――。
「でも…、」
ふわりと揺れる淡い金の髪が、デネボラの腕の中からレグルスの胸へと移る。
「でも…、それでも、私は浅ましく醜いのです」
レグルスの胸へと飛び込んだミラは深青瞳を濡らしレグルスを見上げる。
「レグルス様のお傍に居られるなら、刹那でも構わない」
「…ミラ」
「もし、願いが叶うなら、老婆となっても、骨となっても、魂となっても、永遠にお傍に居たいのです」
「…っ!!」
ミラの頬を伝う涙がレグルスの胸元に落ちた瞬間、あれだけの魔力が一瞬にして霧散してしまう。
「ミラ」
「こんな私をこれからも愛して下さいますか?」
レグルスは小さなミラの身体を包み込むように抱き締める。
「ミラ」
「はい」
「相手が婚約者(俺)なのだから、問題は何も無い」
「え?」
「今、すぐにでも婚儀を執り行えば、良いだけの事だ」
「え?え?」
「後は、頼む」と言って、レグルスは転移の術でミラと共にこの部屋から姿を消した。
張り詰めた緊張からの解放に、デネボラは立っていられず崩れそうになるのをアルファルドが受け止める。
隣に座っていたフォーマルハウトは肩で息をし「寿命が縮まるかと…」と言い、額の汗を拭う。
「あら、残念だったわ」
と、この場にそぐわない、暢気な声が響く。
「もう少しで、国王もろともリデル国すら消滅したというのに」
三人は、声の主を確認する。
「アルヘナ!」
部屋の隅の小テーブルでお茶を飲むアルヘナ。
幻獣をその腕に抱き、頭から背に掛けて優しく撫でている。
「アルヘナ!――っ、幻影か!!」
ふふっと愛らしく微笑むアルヘナは「王宮はつまらなくて、少し離れた場所から眺めていましたの」と、その口元に弧を描く。
「長く生きていると退屈で仕方ないんですもの。少しぐらいの悪戯、許して下さいね」
アルヘナは唖然とする三人に向けて、幼い少女を演じている。
「悪戯にも、限度というものがあるだろう!」
「刺激の無い単調な日々ばかり過ごしていると痴呆になりますわよ、お父様」
「アルヘナ!」
「レグルス様も出仕され、さらにミラ様を得て、王宮内も少しは賑やかになりそうではありませんか」
アルヘナの言葉は滑らかだ。留まる事を知らない。
「わたくしも王族の一員として申し上げます。この国の繁栄は全てアルファルド陛下の賜物。ですが、王家としては如何でしょう?伯父様にはお世継ぎは未だ居らず、次期王位継承者も定めてはいない」
アルヘナは本当に楽しくて仕方が無いという表情で語る。
「つまり、伯父様はデネボラ様との間にお世継ぎを。その間、このアルヘナにリデル国を託して頂きたいのです」
「それほど、この国の女王になりたいのか?」
ここで、ようやくアルファルドが口を開く。
そして、その問いにアルヘナが答えた。
「いいえ。わたくしは、この大陸の女帝になりたいのです」
さらに――。
「本日の出来事で、陛下の双つの紅き宝玉は、蒼海の女神の前では無力であると――」
最後までアルヘナは言葉にせず、にっこりと微笑みを深くした。
10年前に失われたベテルギウスという国は、リデル国の管理の下、ようやく復興が始まった。
指揮を執るのは、女王アルヘナ。
アルヘナの改革は、迅速かつ的確で瞬く間に裁決が下されて行く。
退位したアルファルドは、デネボラを連れ離宮に移り住んだ。フォーマルハウトは、王宮と離宮を行き来し、魔導師長代理として女王を補佐している。
魔導師長レグルスの婚約期間はたった一ヶ月という短さで婚儀に至る。
女王即位に伴い、早めたと公表し、女王アルヘナの片腕として王宮内を掌握していく。
そして、蒼海の女神は――決してその姿を公にする事無く、謎めいたままその生涯をレグルスと共にしたと言う。




