G
目を凝らせ、耳を澄ませろ。第六感を研ぎ澄ませ。
僕は電灯に照らされたリビングの中央で、大きく息を吐いた。
奴は、必ずここにいる。奴を見つけることが出来なければ……僕に暖かい夜は二度と来ることはないだろう。
僕は右手の丸めた新聞紙を構え直した。左手には、人類の英知ゴキジェットプロが装備されている。この二つの武器が、僕にかろうじて平静を保たせていた。
いつ訪れるか分からぬ恐怖は、僕のただでさえ矮小な精神力を刻一刻と消耗させていく。僕は自分と我が家の平和のため、人類の仇敵と戦う義務を背負った孤独な戦士なのである。
人類の仇敵――ゴキブリ目に属するゴキブリ類全般。我が家に襲来したのはチャバネゴキブリ科に属する世界共通の室内害虫、小型ゴキブリ――その名をチャバネゴキブリ。学名をBlattella geamanica.最早ゴキブリという表記が不愉快なので以下Gと呼称しようと思う。
時は数分遡る。
Gは、突然現れた。
三人暮らしで両親は仕事で忙しく、いつも僕が最初に自宅へ帰ってくる。部活をしてから帰宅したので、あたりはすっかり暗がりに包まれていた。自宅は少し街から離れたところにあるので、夜のしんとした静けさと冷たさが、僕にそこはかとなく恐怖を感じさせる。
嫌な予感が胸をよぎる。後から考えてみれば、これは人間の本能的な危機察知能力であったことは疑う余地のないところだ。
玄関を開け、我が家の中に入った。我が家の見取りは玄関を抜けるとすぐにリビングがある。
僕は、電灯のスイッチをONにした。チカチカッという数回の点滅のあと、真っ暗だったリビングを明るく照らし出す。
眩しさに目を眇めながら、僕はリビングを見渡した。何て事は無い。そこにあったのは、家族三人が団欒の日々を送る、何の変哲もない、見慣れたリビング。
「っ!」
僕の動きが……いや、時が止まった。
暖かで、平穏な日々。永遠に続くと思われた平和な日常は、あっさりとその黒い影に終焉を告げられる。
「なぜ……お前がここにっ!?」
闇に紛れる忍のごとく、奴は姿を現した。
楕円型の背は平面で、鈍く茶色い光沢を放っている。頭からは二本の触角が伸びており、何かを探すようにうねうねと動いていた。かさかさと六本足で俊敏に動く様は恐怖以外の何ものでもない。
「ブラックキャップだけでは不十分だと……っ!」
僕は思わず爪を噛みながら、その場で唸る。我が家の対策は完璧だったはず。冷蔵庫や本棚の裏、窓際や台所にはもちろん誘引殺虫剤を設置。家のあらゆる隙間、奴が生息していそうな場所には執拗なまでにブラックキャップを置き、あの恐怖の権化を殲滅したものだと……くっ!
「助けて、マイマザー! Gが、Gが出た! 掃討作戦の実行を要求する!」
僕は片時もあの不快な黒い影から視線をはずすことなくヘルプコールをあらん限りの声量で発する。しかし、僕の必死のSOSは、一人では広すぎる一軒家に空しく響き渡った。
「不在……だと!?」
確かに……いや、分かってはいた。仕事で帰りが遅い両親。僕は共働きの親の子供なのだ。今日は平日。そして今は6時半。そろそろ帰ってくる頃だと思うが……僕はGに対する警戒を緩めないまま、カレンダーに目を遣る。そこには今日の両親の予定が書かれているはずだ。
「バ……カ……な」
僕の膝から力が抜ける。
『父 東京へ出張6→7』
『母 リカちゃんと飲み会♪』
父が今日から一泊で出張!? くそっ、仕事がんばれよ!
母よ、子供を置いて女子会とは少々酷すぎやしませんか!? そりゃあなたも人生楽しみたいでしょうよ。けれど、机に無造作に置かれているどん兵衛(きつね)がどうも心に刺さるのです! いや、鰹だしの芳醇な香りや、汁の染み込んだ熱々の油揚げ……おいしいけれども! 大変美味であることは不変の真理ではあるのだけれど!
「……くそっ! この状況は相当まずいぞ……パターンC3だ」
C1もC2も考えていないのだが、平静を失っている僕にとってそれは余りにも些末過ぎる問題だ。
普段、家にGが出没した場合。掃討作戦に移るのは基本的に母だ。
彼女はGを確認するや否や、履いていたスリッパをおもむろに両手に装備。光彩から光りが消えたと思った途端、竹がしなるような華麗な手首スナップでGを一撃で仕留めるのだ。
ここで彼女のテクニックが光る。Gを思い切り潰してしまうと体内から汁が染み出し、床やマット、また武器に使用したスリッパ等々にそれが付着して不快指数が鰻登りになる。しかし、彼女は強すぎず、弱すぎず。絶妙な力加減でGの息の根を一瞬で止め、無表情でスリッパを履き直すあの勇姿には畏怖の念を感じずには居られない。ビバ、マイマザー。
ところが、だ。現在『Gバスター』の異名を取る(今つけた)母はいない。母までではなくても、逃げ道を一つ一つ潰していき、化学兵器を駆使してGを確実に追いつめる父もいない。
「……はっ、孤立無援ってか」
僕は全ての感情を放棄し、投げ出すように呟いた。しかし、それで現実が何かしらの解決を見せるわけではなく、息を大きく吐いて気持ちを落ち着かせる。すると、この危機的状況下において、徐々に思考がまとまってきた。何なのだろう、この気持ちは。絶体絶命ということに気付いてから、妙に頭が冴えてきた気がする。
「このまま放置という手もあるが……いや、ないか。敵の前で食事や睡眠を取ることほど愚かなことはないだろう。それに、僕がそれに耐えられる程の根性を持ち合わせていない」
論理的に導かれた、一つの結論。援護はなし。逃げ道もなし。ならば――
「戦うしかねえじゃねえか!」
そして、現在に至る。
どうやら僕が覚悟を決めている間にどこかへ姿を眩ましたらしい。我ながら何という不覚! 僕は唇を血が滲むほど噛みしめる。
自分を知り、敵を知り、勝利は確実なものとなるらしい。そういうわけで、現状を整理しようと思う。
こちらの戦力は男子高校生一名と、6日付けの朝刊。野田首相が日中問題についてインタビューを受けているのが一面だ。まさか総理も自分の写真がG退治に使われるとは思っていまい。それに、高知新聞の記者の方々。印刷会社の方々。多くの方にあらん限りの感謝と謝罪を!
もう一つ戦力がある。ゴキジェットプロだ。アース製薬が自信を持って推奨する対G用の化学兵器で、有効成分イミプロトリンがGの秒速ノックダウンを実現! なぜノーベル賞を受賞しないのか不思議でならない。
右手と左手に装備。大丈夫、戦力は十分だ。
そして、敵方の戦力。
今のところ確認出来ているのは一匹だ。増援も考えられるが、それを考えると身動きが取れなくなってしまう。当面はリビングに出没した一匹に絞って考えよう。
大きさは3cm程。大きくもなければ小さくもない。しかし、奴らを大きさだけで判断するのは愚の骨頂と言える。
まず、奴らが保持しているもの。それは飛行アビリティ。四枚の薄い羽を展開し、弾丸のように宙を翔ける。しかし、体重が重いせいで地上から飛び立つことは不可能らしい。警戒するべきは頭上、または壁からの飛行突進。眼前から迫り来る黒い影を想像するだけで鳥肌ものだ。
次に、神出鬼没アビリティ。奴らは隙間さえあればどこにでも出没する。その平面の体はあらゆる場所に潜り込み、人類の平和を侵害し続けている。
さらに、奴らの触覚は天敵を敏感に察知するレーダー機能に長けているらしい。レーダーアビリティと名付けよう。……あれじゃね? お前らFBIに入ればよくね?
まあ、アビリティとしてはこんなものか。しかし、忘れてはならないもの。それが基本能力。
俊敏性、隠密性、生命力……あらゆる能力において、僕は奴らに圧倒的なまでの差をつけられている。約三億年前の古代石炭紀に誕生し『生きている化石』と呼ばれる奴ら。日本で最初に発見された昆虫の化石は奴らの前脚らしいね。人類の歴史がたかだか数万年だから、奴らのしぶとさには舌を巻く。人類が滅亡したら地球を支配するのはGかもという話はあながち嘘にも思えない。
そんな強敵に……僕は勝てるのか?
いや、勝てるのかじゃない。勝たなければならないんだ。
奴らにはなくて、僕にはあるもの。
それは――知力!
伊達にこちらだって地球支配してねえぞ! お前らとの脳容量差を見せつけてくれ――
カサカサ。
「っ!」
どこだ!? 嫌悪感しか生じさせない不吉な音に僕は敏感に反応する。音源はいずこ……僕がそう考えると同時に感じる、左肩の違和感。僕は、恐る恐る自分の左肩を見た。
そこには、奴が居た。
僕の表情が固まる。もはや脳が現状を理解するのを拒むかのように、表情筋の動きを停止させた。それでも、現実は確かな重みを持ってそこに存在する。
奴――Gは、まるで僕を嘲笑うかのように、触覚を不規則に揺らしていた。制服越しでも感じる不快な感触。六本の脚が、ポリエステル生地の上を這っていく。
えーと、これは……あれだ。
「きえぇええぇぇえぇええぇぇええええぇえぇえええぇぇ
ええぇええぇえぇぇぇええぇえぇぇえええぇえぇ!!」
僕のスクリームが闇に静まりかえる近所一帯に響く。誰か110番!
僕は髪をうねるように乱しながら左腕を大きく振った。Gがボトリと床に落ちる。パニックに陥りながら、ただただ逃げる。ドタドタッと後ろに数歩下がり、壁に体をぶつけて崩れ落ちた。
双眸に薄い水の紗幕を張りながら、僕は正面を見据えた。そこには、迫ってくる黒い影。
「ぴぎゃああああぁぁぁあぁぁああぁあああぁあぁあぁああぁあぁああぁぁぁあぁぁあぁあぁああぁぁああぁ!!」
防衛本能が働き、左手に装備したゴキジェットプロを連続噴射する。本当はご利用上の注意で噴射は大きさによって1~8秒までと決められているのだが、そんなものを律儀に守っている余裕はない。
Gはちょこまかと逃げ回っていたのだが、強力ジェット噴射していたガスが奴の平たい体をついに捉えた。途端、奴の動きが鈍る。一瞬で体中に薬品が巡ったに違いない。ビバ、アース製薬。そのあまりの威力に僕も冷静さを取り戻す。
今が、チャンスなのでは?
ゴキジェットプロのその威力に、奴が誇る比類なき俊敏性は大幅な減退を強いられている。奴の動きが鈍っている今の内に、右手に装備した新聞紙を使っての物理攻撃でとどめをさすべきなのでは?
僕は圧倒的な優位に立つことで、口元に薄い笑みすら浮かべるほどの余裕を獲得した。僕がすべきことは、ただ一つ。
「……さようなら」
Gに、別れを告げること。この手で、冷徹かつ迅速に。
「はっ!」
母の技を見よう見真似で行う。どちらかというと、叩くのではなく、滑るイメージ。
パンッ! という新聞が床を弾く音がリビングに響く。ただでさえ平たい体を、潰されることによってさらに薄くしたGの姿が確認できた。
触覚は……動きなし。脚は……ピクピクしてない。
目標の殲滅を確認。
僕はそのまま十枚くらいのティッシュでGをくるむと、武器に使った新聞紙と共にゴミ箱に葬った。
戦いを終えて、僕の心に去来するのは嵐が去ったあとのような安堵と、マラソンを完走した時のような達成感。
僕は、平和な夜を手に入れたのだ。
「……さて、飯にするか」
戦いを終えて腹が鳴る。僕は勝利の晩餐であるどん兵衛に手を伸ばした。その時――
机の上を這う、黒い影。
「……な」
Gを一匹見つけたら、三十匹はいるとか。奴らの卵は強固で、あの凄まじい威力を誇るゴキジェットプロを至近距離で吹き付けても効果は薄いらしい。だから、台所の下など、気が付けばGパラダイスが形成されていることなど珍しくないと言う。その内一匹が、たまたまリビングに姿を現しただけで。
本日二匹目のGは、触覚をうねうねと動かしている。その動きはやはり僕を嘲笑うかのようで。
「ぎゅいいぃぃいぃぃっぃいいぃぃぃいぃっぃぃいぃぃいぃいいいぃぃぃぃいぃいぃぃぃぃいぃぃぃいぃぃいぃぃ!!」
僕の鋼を切るような断末魔が、夜の住宅街に響き渡った。
《了》
これが初投稿です。実話をもとに作りました。だからでしょうか、随分とへんてこな話になってしまいました……(笑)。少しでも共感、笑って頂ければ嬉しい限りです。
未熟な点が多々目立つと思います。ご指摘、ご感想があれば是非お願いします。