赤いファイル/5
大野巡査を帰した後、青木と木下の二人は江津湖をぶらついていた。
「一応何か新しい情報入ったら連絡くれって言っときましたけどこれでよかったですかねぇ」
パキっと缶コーヒーを開けながら木下が言った。
「いいんじゃねぇか。これ以上は出ねぇだろ、あいつ叩いても」
青木は不機嫌である。
「あの口止めの件、気になってるんでしょ青木さん」
「上は俺らにどうして欲しいんだ? そこだよ、おれが考えてんのは」
青木がぐいっとコーヒーを口に含む。
「そういえばもう一つ気になるな」
「なんですか、もう一つって」
青木の鋭い目が木下を激しく睨みつけた。
「てめぇのことだよ木下。なんであいつを口止めしたのが警察庁だと思ったんだ? あそこですぐそれを思いつくっておかしくねぇか。何か知ってんのか」
「ああ。あ、あれですか。知ってるっていうか何というか……」
今度は木下が口ごもっている。青木は今にも殴りかかってきそうな雰囲気である。
「分りました。今から話すのはあくまでも噂ですよ、青木さん。口裂け女とかトイレの花子さんとか都市伝説レベルの話です」
「おい、分ってんだろうな。おれはその手の……」
青木の表情がいっそう険しくなった。
「分ってますよ。そっち方面じゃあないです。僕もあんな目にあうのは二度と御免ですからね」
慌てて木下が二、三歩後ずさりした。
青木はその厳つい風貌に似合わず、怪談などホラー系の話が大の苦手なのだ。
映画はもちろん人からその手の話を聞くのも極端に嫌う。
以前木下が青木の相棒になってすぐの頃、車の中で容疑者を張り込んでいた事があった。
夜の車の中で眠気に襲われた木下はそれを覚まそうと急に怖い話を始めた。
と、突然青木は何も言わず木下に殴りかかった。頭、腹とされるがままに殴られたのだ。そして何が起こったのか理解できないまま木下は車から放り出された。
後日、同僚の刑事に聞くと青木に恐い話は絶対にしてはいけないという暗黙のルールがあるのだという。痛い目を見たのは木下だけではなかった。
それ以来、木下はどんなに減らず口を叩いても恐い話だけはしていない。それがどんな些細な恐怖話でも、だ。
「もう殴らねぇから心配するな。で、何だその噂ってのは」
「僕が警察学校時代の話ですよ。同期の何人かで飯食ってる時に聞いたんです。何らかの理由がある場合警察庁、つまり国家公安委員会から事件隠蔽のお達しが警察上層部に来る事があるらしいって」
国家公安委員会とは警察を管理する、いわゆるお目付け役である。
「なんだそりゃ。なんで公安がそんな事言ってくるんだよ。
それに何らかの理由って何だよ」
「僕に分るわけ無いですよ。言ったでしょ、噂だって。で、そこから現場に口止めが来て事件そのものが無かった事にされるらしい。もちろんマスコミなんかにゃ絶対漏らさない」
木下がしーっと口元に人差し指を立てた。
確かに事件が四つも同じ湖沿いで起きたのだから、多少噂がたってもおかしくはない。
新聞にタレこむ奴がいて記事になってもいいはずだ。
だが今日江津湖に来てみても何も変わらない、平和そのものの光景がそこにはあった。
不審者注意の看板ひとつ見当たらない。
そこまで完璧に情報規制をする事ができるのだろうか。
「警察学校でくだらねぇ話してやがる」
「でも今回の件、その噂と似てると思いませんか。実際あの警官は警察庁から口止めされてる。まあこの噂を聞いた時は身内がよっぽどの事件起こした時にそれを隠蔽するためじゃねぇのって笑ってましたけどね」
身内、つまり警察内部の人間が事件を起こした時にそういった指示がくるという事だろう。
青木は理解できない。警察だろうが何だろうが事件を起こせば法に裁かれるのが道理だろう。
普段は荒っぽい性質だが正義感は強い男なのだ。
それほどの事件だというのかこの案件は。
「益々わからねぇな」
「同感です」
それから二人はしばらく湖の周りの聞き込みをした後、帰路についた。もちろんこれといった情報も得られぬまま。
青木の脳裏には公安による口止めと、なぜかあの走り去った高校生の事がずっと残っていた。




