赤い誘惑/5
自分の置かれた状況にかなりの危機感を感じてきたのだろう。坂本は全ての罪をなすり付けようとした二人を大声で煽りだした。その様子はかなり取り乱していた。
「竹本、気持ち良かっただろう。自分を散々苦しめてきた連中は俺が足腰立たなくなるまで打ちのめしてやったんだ。俺が代わりにやってやったんだよ。お前の代わりに!」
竹本は最早どうしていいのか分からなくなっている顔をしている。はやし立てる坂本の目を直視できないでいた。
「沙耶、もうすぐお望みの力を手に入れられるんだよ。馬原の血を少しでも飲めば、お前のばあちゃんは長生きできるんだ。さっさとここから出て一緒に逃げるんだよ。俺と一緒に!」
その姿は滑稽で、哀れだった。さっきまで瓜生を挑発し、自信に充ち溢れていた坂本は、一人でも多くの味方を作り保身に走るヴァンパイアの姿だった。
沙耶がいまだ意識のない啓介へと目をやった。自分の声に効果ありとみた坂本はさらに煽る。
「そうだ、沙耶。その味を覚えたら一生忘れられない。どんな高価な食材でも敵わない最高の味だ。一口噛んでやればいい。馬原も大好きなお前のためなら喜んで血を差し出すさ」
沙耶はまるで催眠術にかかったような虚ろな目で啓介を見つめたまま、ゆっくりと腰を上げた。
窓際にいる青木が何かあれば、沙耶を後ろから取り押さえようと身構える。
そうだ、行けと坂本の声が沙耶の背中を押す。
「大久保さん、止した方がいい……」
坂本とは対照的に瓜生が穏やかな声で沙耶を抑えが、果たして彼女の耳まで届いてるのか分からない。
一歩、また一歩、ゆっくり磨るように足を前へ運ぶ。
「お、おい。瓜生……止めるぞ」
青木は自分でも分らなかったが、なぜか瓜生に判断を仰いだ。すでにこの場を彼に任せただけに勝手な行動には躊躇したのだろう。沙耶の力はさっき痛いほど味わっているし、竹本に殴られた頭の痛みも取れてはいない。だが青木も目の前でヒトが襲われるのを黙って見てるわけにはいかない。
ところが瓜生は黙って首を横に振り、そして竹本を見るように視線で合図を送ってきた。
竹本は啓介に一番近い位置にいる。焦点が合ってない目は彼が何を見、何を考えているのか判断できない。ポケットに片手をつっこみ、ただぼーっと立っているだけである。
瓜生は沙耶だけでなく竹本にも注意しろと教えたかったのだろう。
分が悪い―――青木は思った。
最悪何か動きがあれば、瓜生はすぐ隣にいる坂本の相手をしなければならないし、手負いの青木は沙耶と竹本の二人を同時に抑えなければならないのだ。
沙耶が啓介の血を果たして飲もうとするのか、そして竹本がそれを手助けするのか。そう青木が考えている間にも沙耶は啓介のそばまで歩み寄っていた。
やれ沙耶と、なおも坂本はあおり続けている。
瓜生がなぜそれを黙って見ているのか、緊迫した空気の青木の耳には坂本の声がとても耳ざわりだった。
「大久保さん……」
瓜生が子供に話しかけるように優しく、穏やかに話しかけた。
「悪い事は言わない。やめておいた方がいい。彼は……」
瓜生が言いかけて、沙耶は啓介の腕を掴み振りかえった。
「どうせあなたに連れて行かれるなら、いいじゃない。最初で最後の私の食事よ!」
そう言い放つと、沙耶は啓介の腕に長く伸びた爪を押し当てた。そして、
(啓ちゃん)
誰に聞こえるでもない小さな声で沙耶はそう呟くと、血のかすかに滲んだ腕に一気に噛みついた。
「よせっ」
青木は慌てて沙耶に飛びかかった。が、急に動いたせいで竹本に殴られた後頭部に激痛が走り、青木は膝をついた。
(なんだってこんな時に……)
あまりの痛みに頭を抱え、もう一方の手は届くはずもないのに沙耶の背中へ向けて精一杯伸ばした。
青木の目には男の血を食らう魔女の姿が映っていた。
彼女の口元からは赤い線が一筋伸び、喉が小さく何度も波打っている。確実に馬原啓介の血液は、大久保沙耶の喉を通り、その胃袋へと流れ込んでいる。
そしてその沙耶の顔は、まるで砂漠でようやくオアシスを見つけたかの如く悦に入っていた。
青木の胸には失望と自分に対するやり場のない怒りが込み上げていた。自分の目の前で、再びヒトがヴァンパイアの餌食になってしまった事に絶望してしまっていた。
彼女は今夜の目的を警察と『ネイヴ』の目の前で達成してしまった。
腕を噛まれ、血を吸われている啓介の体はびくんびくんと吸われる力に反応するが、意識は戻らない。自分の意図しない所で彼の体は外部から攻撃されているのだ。果たして彼は今、どんな夢を見ているのか、意識が戻る事はあるのだろうか。絶望の中で青木はそんな事を考えていた。
そしてヴァンパイアの本能をむき出しにして血をすする沙耶の姿を、竹本はその横で怯え、震えながら見つめているだけだった。
一方の瓜生も沙耶を制止しようと咄嗟に動いたが、坂本に行く手を阻まれてしまった。
「おっと、レディーが食事中だ。邪魔はよくないな」
「どけ、坂本君。彼女のためにもならないよ」
「余裕こいて眺めてたくせにどうした? 流石に彼女が俺の指示通り動くとは思ってなかったか。そいつは残念だったな。愛だよ、愛」
「坂本君、ボクが起こる前にそこをどいた方がいい。でないと―――」
「おい、瓜生!」
睨み合う坂本と瓜生に青木の怒号が響いた。
瓜生はその声にハッと我に帰り、坂本の体を払いのけ青木の方へ急いだ。
ようやく赤い美酒にありつき、至福の表情を見せていた沙耶が一変して今度は苦しみ出したのだ。目をむき出し、時折奇声を上げながらのたうち回る彼女の姿を、青木はどうする事も出来ずただ見ているほかなかった。
「俺は何もしていない。血を飲んだかと思ったら急に苦しみ出しやがった」
沙耶は喉と腹を押さえ、下を出して嘔吐を繰り返した。胃液と血液の混じった異常な匂いが教室中に充満し、それが鼻の奥を刺激する。
「どういう事だ瓜生! ヴァンパイアとしてこれは正常なもんなのか」
自分でそう言っておきながら、これが正常でない事は誰の目に見ても明らかだった。
「だから止めておいた方がいいと言ったのに……」
瓜生もこうなってしまったらしばらくはどうしようもない、とただ彼女の苦しむ姿を見ているだけだった。
「ま……まさか。嘘だろ……」
瓜生の後ろで顔色の豹変した坂本が信じられないと声を上げた。それを聞いた瓜生が坂本に勢いよく掴みかかった。
「分かったか、坂本! これは君のせいだ。君の責任だ。だからボクはよせと言ったんだ。これでボクの言った意味が分かっただろう?」
坂本はさっきまでとはまるで別人のように脱力しきっていた。自分の計画が最後の最後まで狂ってしまった事、予想もしてない出来事にもはや彼の戦意は消滅してしまっているようだった。
「てめぇ、何してやがる!」
ガシャンと大きな音で、瓜生は振り返った。
今度は竹本が椅子の群れの中に仰向けで倒れこんでいた。よく見ると竹本の手には赤く染まったナイフが握りしめられていた。
それは一瞬の出来事だった。青木が苦しむ沙耶に何の手出しもできず眺めていたその一瞬の隙に、竹本がスッと彼女に近づいたかと思うと、沙耶は苦しむのを止め、膝から崩れ落ちた。
何が起こったのか分からない青木の目に飛び込んだものは、銀色に光る鋭い凶器だった。
青木の体は反射的に竹本へ動き、力強く握りしめた拳が竹本の顔面を打ち抜いたのだった。
「瓜生、救急車だ!」
この場を完全に支配していた瓜生も今度は動揺の色を隠せないでいた。
「この馬鹿、彼女を刺しやがった」
青木は倒れた沙耶を支え、彼女のわき腹を、自分の手を真っ赤になりながら必死に抑えていた。
さっきまで苦しみもがいていた沙耶の顔からは血の気が引き、うつろな目で天井を眺めている。
床にはみるみるうちに血だまりができ、青木の足にもその血液のぬくもりが伝わってきた。
「畜生、血が止まらねぇ」
「枕崎さん!」
瓜生の声でどかどかと数人の男たちが教室へ飛び込んできたが、今の青木の目にそんなものは入らず、ただ必死に沙耶のわき腹を抑え続けた。
沙耶は赤く染まった細い腕を失いつつある力を振り絞り、啓介の方へ伸ばした。うつろな目は天中から意識のない啓介へと移った。震える手は啓介に届くはずもなく、一筋の涙が彼女の頬をつたい、彼女の優しい声が短くなる呼吸とともに小さくぽつりと消えていった。
「ごめんね、啓ちゃん……」




