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赤い誘惑/3

 坂本は鼻からつたう一筋の血を指で拭うと、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながら、うつむく沙耶を見た。

「相当なクズ野郎だな、こいつは」

 青木も沙耶に痛めつけられた事など、とっくに忘れて坂本を睨んだ。

「大久保さんが竹本先生に話してしまった事は彼にとっても計算外でしたが、逆にそれが自分から『ネイヴ』の目を逸らす事が出来ると考え、二人を利用する計画を立てたんです」

 瓜生の目は坂本を捕えたままである。また何か沙耶の事を傷付けるような事を言えば、再び行動に出る準備はできていた。

「それが今夜のこれか」

「馬原君が大久保さんに行為を持っている事を利用し、彼の血を飲む事を進める。そしてその次に大久保さんの血を竹本先生に飲ませ、希望通りヴァンパイアにさせる」

「先生をヴァンパイアにすることが坂本の身を守ることになるのか?」

 青木は竹本のことをいつの間にかおっさんではなく、先生と呼んでいた。すでに竹本と沙耶の事よりも、坂本の方に怒りが向いてしまっているからだろう。

「彼は今日よりも以前に、すでに下準備をしていたんですよ」

 青木は首を捻る。

「青木さん、あなたが捜査していた事件を思い出して下さい」

「俺が?」

「ボクと知り合うきっかけとなった事件。あなたがこちらの世界を知る引き金になった事件です」

 青木はハッとした。

「江津湖の……通り魔か」

「江津湖での四件の通り魔、それは大久保さんと竹本先生の仕業です。これはボクの予想ですが、三件目までが大久保さん、四件目が竹本先生でしょう。そしてそれの裏で糸を引いていたのが坂本君なんですよ」

「ま、まさか」

 驚きのあまり青木は竹本と沙耶を交互に見比べた。

「待てよ、瓜生。大久保はまだ血を飲んでなかったし、竹本に至ってはヴァンパイアでもないじゃねぇか。なんでそんな奴らがヒトを襲うんだよ」

「だから練習させたんですよ。ヒトを襲う連中を」

「襲う……練習?」

 理解しきれない様子の青木を見て、ふんと坂本が鼻で笑った。

「これからヴァンパイアとなって生きていくならヒトを襲う練習くらいしないといけない、とでも言ってそそのかしたんでしょう。親ライオンが子ライオンに狩りを教える、例えるならそんな感じですか」

「そんな犯罪を犯せと言って、こいつらははい、分かりましたと言ってヒトを襲ったってのか。そんなもん、イカレてる!」

 激しく狼狽した青木は竹本と沙耶を指さし、声を荒げた。

 そんな青木の姿に、坂本が嘲笑しながら低い声で声を掛けた。

「分かってねぇなあ、刑事さん。そこの女みたいなのが一番動かしやすいんだよ」

「何ぃ?」

 意外な所から声を掛けられ青木は身構えた。また妙な事を言い出した坂本に瓜生がにじり寄る。

 坂本は瓜生に警戒して少し後方に下がった。

「おっと、お前ばかりじゃなくて俺にも話しさせろよ。いいか、刑事さん。孤独に生きてる女なんか少し優しい言葉掛けてやりゃあ、その気になってコロっと落ちるんだよ。そうなりゃ何の疑いもなくこっちの言った通りに動いてくれるんだ、今夜みたいにな。そっちの竹本なんか早くヴァンパイアになりたい馬鹿な奴さ。そんな馬鹿はそのためには何だってするんだよ。所詮そいつらは俺の駒なんだよ!」

 くくくっと、自分の駒の二人をあざ笑う坂本に青木は我慢の限界だった。一刻も早くこのクズ野郎をぶっ飛ばしてやりたい。その感情を抑える力はすでに青木の中にはない。

「やはり君には退場してもらった方がいいようだ」

 瓜生が笑う坂本の腕を掴みかかると、坂本は素早い動きでその手を払いのけ、横へかわした。

「おいおい、調子に乗るなよ転校生。俺がいつまでも大人しくしてると思うな」

 坂本は自信ありげに拳を顔の前に構え、ファイティングポーズをとった。

「十五人相手でも俺は負けないんだぜ? お前なんかに負けるかよ」

 そんな坂本に、瓜生はふぅっとため息をついた。

「往生際が悪いなあ。ボクはあまり暴力が嫌いなんだよ、坂本君。いくら君が救いようのないクズ野郎でもね」

 さっきいきなり坂本を殴りつけた男とは思えない発言に、青木は怒りも忘れてポカンとしてしまった。

 やる気のない姿勢で立っている隙を見て、坂本が瓜生の顔めがけて拳を繰り出した。

 瓜生はその早い動きに戸惑う様子も見せず、体を斜めにしてそれを交わしたかと思うと、坂本の背中を掴み、殴りかかってきた勢いそのままに彼の体を黒板へと叩きつけた。

 ばあんと激しい音と共に坂本の顔面は黒板へしたたかに打ちつけられた。坂本は黒板の方を向いたまま、ズルズルと腰を落とし、そのまま床へへたり込んだ。

 一瞬の出来事に青木は息を飲んだ。それはあっという間に坂本の戦意を喪失させたと同時に、竹本の逃亡の意思を失わせたのだ。

「弱い相手に粋がってたお前と違うんだよ俺は。しばらく大人しくしてろ、カスが」

 瓜生には似つかわしくない台詞に青木は耳を疑った。今夜、ここにきて度々瓜生が見せるもう一つの顔に、青木はこいつはとんでもない喰わせ者だという事に改めて気付かされた。

「こいつはこうやってヴァンパイアの顔を隠して生活してきたんですよ。中学校の時もカラんできた不良たちを返り討ちにしてね。こんな奴と同族だと考えただけでも虫唾が走る。大久保さん、分かったでしょう。あなたが愛した相手はこういう男だったんですよ」

 瓜生の表情はガラリと変わり、優しく沙耶に話しかけた。

「……わよ」

「え?」

 久しぶりに聞く沙耶の声は、とても小さく弱々しかった。

「……知ってたわよ」

 青木もその声を聞き取ろうと、耳を澄ます。

「そんな事知ってたわよ!」

 沙耶は立ち上がり、大声で怒鳴った。

「坂本君が私の事をなんとも思ってない事なんてとっくに知ってたわ」

「それを知ってて君は彼に言われるがまま動いてたのかい?」

 沙耶の激情とは真逆に、瓜生の声は冷静だった。

「それでもよかった。私は彼のそばにいれたらそれでよかったの。彼のためならなんだってできる。孤独だった私には彼だけが心を安らげる場所だったのよ」

 恋は盲目とはよく言ったものだ。涙ながらに語る沙耶を見て、坂本の罪深さが痛いほどよく分かった。

 そんな沙耶の言葉に瓜生は首を振った。

「孤独? 君は勘違いしてる。君がヒトを捨ててま命を救おうとしたばあちゃんは? いつも遠くから君を見ていた幼馴染の馬原君はどうだい。君のどこが孤独だったんだい」

「おばあちゃんが死ねば私は両親のいるヨーロッパに連れ戻されるからよ。でももうそれはいいの。私は全て済んだら坂本君と沖縄に行く予定だったんだから。啓ちゃん? そんなの勝手に私の事好きでいただけじゃない。馬鹿じゃないの」

「……君は更生できると思ったんだけどね。残念だよ」

 瓜生は顔をしかめた。

「君も坂本君と一緒に“別荘”行きだね」

「“別荘”?」

 青木も沙耶もその言葉の意味が分からず、同時に聞き返した。

 そんな二人をよそに、瓜生は続けた。

「さあ、もうボクの話も終わりに近づいてきました。なぜ坂本君が二人にヒトを襲う練習をさせたのか」

 “別荘”が何か気になる所だが、今は瓜生の話を終わらせる事を青木は優先させた。

「大久保さん、今君は坂本君と一緒に沖縄に行くと言ったけれど本気で彼を信じてるのかい?」

「え?」

 瓜生の問いに沙耶は一瞬戸惑った。

「あれだけ君にひどい事を言ったあの男の話を信じてるのかと聞いたんだ」

「あ、当たり前じゃない。坂本君が約束してくれたのよ。全部竹本に押し付けて一緒に沖縄に逃げようって……」

 突然の話に今度は竹本が慌てた。

「な、何だって? 私に全部押し付けるだと!」

 教室内の空気は留まる事を知らず、コロコロとその色を変えていく。瓜生の口から真相が徐々に明らかになるにつれ、空気だけでなく、そこにいる全ての人物の顔色や心の色まで変えていっているのだ。

「押し付けるって、江津湖の通り魔や木下の件って事か」

 瓜生に色を変えられているのはこの青木も例外ではない。

「それだけじゃあない。青木さん、あなたはこの件に関わるべくして関わったと言っていいのかもしれない」

 瓜生はまた様々な色を変えるべく、語りだした。




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