赤い誘惑/2
「は、離せよ」
そう言われると、坂本の胸倉を掴んだ瓜生はあっさりとその手を離した。
青木としては木下を襲った犯人である坂本を、殴りつけなければ収まらないほど怒りをあらわにしていた。
「てめぇが昼間の……」
坂本は掴まれて乱れた襟元をきゅっと整え、不敵な笑みを浮かべている。
「昼間は残念だったね、刑事さん。いや、命拾いしたと言うべきかな。あの時、俺に追いついてたらあんたの血も今頃俺の胃袋の中だったからね」
挑戦的な態度に青木は堪え切れず、再び坂本に飛びかかろうと身構えた。
だが、それを制したのは瓜生だった。
「青木さん、落ち着いて。そんな安い挑発に乗っちゃだめだ」
「お前は黙ってろ。こいつが俺の相棒をやったのは間違いないようだ。俺が捕まえて連れて行く」
「忘れたんですか、青木さん。彼はヴァンパイアだ。あなたの管轄外なんですよ」
「ぐ……」
握りしめた拳をどこにぶつけていいか分からず、青木はそばにある椅子を蹴り上げた。その椅子が、危うく竹本に当たりそうになり身をそらす。その様子を坂本はにやにやと笑って見ていた。
「俺に黙って見てろってのか! 目の前にいる犯人を、俺はどうにも手出しできないのか、瓜生よ」
「残念ながらそれがヒトとヴァンパイアが交わした約束です。堪えて下さい。ここはボクに任せて……」
「くそったれめ」
納得いかない。目の前の犯人を捕まえる事もできない苛立ち、血がまずかったなどと木下を侮辱したこの男に青木はなぜか負けたような感覚を抱かざるを得なかった。
「どうせ彼はここから逃げる事は出来ない。ボクを鼠と呼ぶのは勝手だが、今は自分が袋の鼠なんです」
坂本の顔から笑みが消え、瓜生を睨みつける。この男はこの不利な状況にいながら、まだどこか観念していない、逃げ切れる自信を隠し持っている様に青木は感じていた。
「一つずつ説明して行きましょうか。青木さんも彼が破った掟とその罪の全体像がまだはっきりしていないでしょうから……。まず彼は大久保さんにヴァンパイアの存在を教え、彼女をヴァンパイアに引きこんだ。掟のうち、二つ。話さない、与えないを破りました」
瓜生は坂本に向けて指を二本突き出した。坂本はそれに対し、ぷいっと顔をそむける。
「青木さん、疑問に思いませんか?」
「疑問?」
青木にはさっぱり何の事だか思いつかない。今は瓜生の隙をついて、いつこの野郎を殴ってやろうかとそればかりを考えていたのだ。すると横から竹本が口を開いた。
「……どうして彼女に話したのか」
「そうです。ヴァンパイアの事を下手に他人に話せば、そこから『ネイヴ』が嗅ぎつける恐れもある。なぜわざわざそんな危険を犯したのか。一人で隠れて活動していればこんな大事にはならなかったのに、です」
「単に仲間が欲しかったんじゃないのかよ」
「賢い彼がそんなお荷物にもなる人間を増やすとは考えにくい。単純に坂本君と大久保さんは付き合っていた……つまり恋人同士なんですよ。人目につかないよう、隠れてね」
「はぁ?」
その時、机に寝ている啓介の指先がわずかにピクリと反応したが、教室の誰もその事には気付かなかった。
青木は大久保沙耶に目をやった。坂本と沙耶は目を合わせることもなく、お互いにどこか目的も無く視線を泳がせていた。
「ヴァンパイアが異性のヒトを近くに置く事は珍しくありません。もちろん恋人として。しかしその中にもう一つ目的を持つ者もいる」
「好きで恋仲になるだけじゃないってことか?」
「そう。つまり“恋人の血”です」
瓜生の言葉に青木が慌てて反論する。
「好きな相手に血を吸わせるのか? どうかしてるぜ」
「愛する相手になら全てを捧げる……男女の仲ならおかしくはない。それが心や体だけでなく血液でさえも」
狂ってる、青木には理解しがたい感覚だった。青木もこれまで一応恋愛経験をしてきた。死ぬほど惚れた相手も実際にいた。だがそんな相手でも、まさか血まで欲しいとか与えるとかいった感情は納得しようがない。
「青木さん、世の中には色々な人間がいる。時に愛する相手に血を吸われる行為が、男女の交わりよりも快感になる事もあるんですよ」
「血を吸われることがセックスよりもいいってのか。そんな性癖、俺には分からん。いや、分かりたくもないね」
「とにかく、ある事がきっかけで二人は恋仲になる。そして大久保さんは坂本君に言われるがまま、血を捧げた。そうですね、大久保さん」
沙耶は下を向いたまま、少し頬を赤らめ小さく頷いた。そんな沙耶に坂本は余計な事言うなとばかりに、大きく舌打ちした。
「ところが、大久保さんは血を吸われるだけでなく、そのヴァンパイアの力に興味を持つようになってきた」
「いじめと祖母……か」
瓜生が頷く。
「そして条件付きで、坂本君は自分の血を大久保さんに分け与えた」
「なんだ条件って」
「自分の許可なく、ヒトの血を吸わない事。それが条件です」
「なんでそんな条件出すんだよ。ヴァンパイアにしちまったんだから別にそんなものいらんだろう」
全くもってヴァンパイアの考えてる事は青木にとって理解しがたいものだった。そんな条件付けてもヴァンパイアの本能がそれを許さないだろう、本来なら……。実際今日まで沙耶はその条件を守ってきたわけなのだ。
「自分の狩り場を荒らされたくなかったんですよ、坂本君は。彼女が勝手な行動に出れば、それこそ『ネイヴ』が嗅ぎつける。坂本君はそれを懸念して条件を出したんですよ」
まさに十代の、周りが見えない少女の一途な愛がヴァンパイアの本能を抑え込んでいたのだ。
「ヒトの血を勝手に吸わないという条件は守っていた大久保さんですが、別のことで彼女は坂本君のお荷物になってしまう」
「わ、私に話してしまったことだね……」
竹本がぼそりと力のない声で呟いた。その言葉に瓜生は頷くと、少し不安げな表情で沙耶の方を見た。
「ここからは大久保さんには少々、酷な話になるんだけど……」
沙耶はその言葉に反応するでもなく。生気のない目で一点を見つめているだけだった。
「おい、瓜生よ。お前が話しにくいなら俺が代わりに話してやろうか。俺にとっちゃそんな女なんか―――」
次の瞬間、坂本の体は物凄い勢いで黒板に叩きつけられていた。
青木も竹本もあっと声を出す間もない、それは一瞬の出来事だった。瓜生の拳が坂本の頬を激しく打ちぬき、殴られた坂本の体はその力で黒板まで吹っ飛ばされたのだ。
「イラつくなあ、あんた……」
瓜生は憎しみに満ちた目で坂本を捉えていた。その表情は、傍から見てる青木ですら背筋に寒気を感じるほどだった。




