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赤い誘惑/2

「もう一つの力だと?」

 瓜生はさっきよりもより険しい表情へ変わった。その話をするのも好ましくないという様な顔だった。

「彼女が誰にヴァンパイアの話を聞いたのか、それは後回しにしましょう。青木さん、人間は富も名声も権力も手に入れたら、欲望や恐怖はどこへ向くと思います?」

 思いがけない瓜生からの問いに、青木は虚を突かれた格好になった。

 全てを手に入れた人間―――青木は考え込む。人間の欲望は計り知れないし、際限がない。そんな全てを手に入れた人間にはたして恐怖などあるのだろうか。

 恐怖、恐怖……。

 全てを手に入れたなら、その全てを失う恐怖―――。

「恐れるものは“死”ですよ」

 悩む青木に、瓜生が一つ目の答えを導く。

 “死”。全てを手に入れても自分の体は安全になったわけではない。周りの人間との確執、突発的な事故。“死”は生あるものに対し、常に付きまとうものなのだ。

「なるほど、そりゃあいくら金持っててエライ奴でも死ぬのは恐いかもしれねぇな。だがそんなのは貧乏でも金持ちでも一緒だろう」

「昔から権力者は“死”から逃れる方法を求め続けました。秦の始皇帝などがいい例です」

「不老不死ってやつか。だがそんなものあるわけがないだろう」

「その通りです。不老不死など幻想にしか過ぎない。ですが、“死”への歩みを遅くできるとしたら?」

 青木は眉をひそめ、信じられないといった顔をして見せた。

「それがもう一つの力です。ヴァンパイアの血は“老い”を遅らせる。つまりヒトよりも“死”が少しだけ遠くなるんです。俗に言う“若返りの薬”ですね」

 青木は苦笑いした。

「そんなものを彼女は欲しがったのか? まだ十六七の高校生がそんなもの星ってどうする。いやでもあと五十年以上も生きなくちゃならねぇんだぞ」

「青木さん、人間の欲望というのは恐ろしいものです。血を欲しがったのはなにもヴァンパイアだけじゃない。ヒトもヴァンパイアの血を欲するんです」

 青木には理解できなかった。ヒトを辞めてまでも生に固執すものなのだろうか。

「闇社会では伝説の様にヴァンパイアの血の噂が囁かれているんです。しかもその血は高額で取引されている。どこで耳にしたのか大富豪がその血を求めてヴァンパイアを人身売買したりね。血さえ手に入れば体は必要ないから、大抵は殺される。『ネイヴ』も取り締まってますがイタチゴッコでキリがない。“老い”を遅らせるという事は“美”を保てる。“美”を保てれば、“死”を遠ざけられる。ヒトは“美”を求めるんです」

 恐ろしい話だ。ヒトまで血を求める、そうなると最早ヒトとヴァンパイアの境界線が分からなくなってくる。

「じゃあヴァンパイアはみんな長生きするってのか」

「ヒトよりは、ね。ヴァンパイアは個人差はありますが、十八歳過ぎた頃から老いへ向けてのスピードが極端に落ちます。例えば同じ四十歳でもヴァンパイアの場合、ヒトの二十歳前後の若さに見える。ちなみにヘンリーの享年は二百八十五歳でした」

「二百……化け物か」

「あくまでヒトの血を飲み続ければ、の話です。だからヴァンパイアに目覚めなければヒトとなんら変わらない」

「そんな若いのに“美”にこだわるのか。分からねぇな」

「彼女はその力を自分のために使いたいわけじゃないんですよ、青木さん」

 今日という日ほど、疑問ばかりが青木の頭を支配することはないだろう。それくらい青木の脳は混乱を繰り返していた。

「病気のおばあちゃんのためだね、大久保さん」

 それを聞いて沙耶は取り乱した。立ち上がり、瓜生に掴みかかる。

「もうやめて! 私は自分を変えたいからヴァンパイアになったの。先生を利用したのも早く血を飲みたかっただけ! さっさと私を連れていきなさいよ」

 堰を切った様に取り乱す沙耶の腕を、瓜生は素早く掴み強制的に静止させた。

「ちょっと待て、瓜生。彼女はもうヴァンパイアなんだろう? じゃあこんなまどろっこしい事しないでさっさと自分の血を誰にでもやったらいいじゃねぇか」

 沙耶と竹本はわざわざ危険を冒してまでこんな儀式めいたことをやろうとしていたのだ。青木にはそれが理解できない。

 目立たずに自分の血、ヴァンパイアの血を病気の祖母のために使えばいいだけだ。

 危険を冒した結果、青木にも瓜生にも見つかってこんな事態になってしまっているのだから。それが青木の疑問だった。

「いや、大久保さんはまだですよ」

「なに?」

 青木を簡単に放り投げた沙耶の力はまさにヴァンパイアの力そのものだった。

「ヴァンパイアの血を飲めばヴァンパイアになる事ができます。そしてヴァンパイアになって最初にすべきなのは、まずヒトの血を飲む事なんです。そうしないと自分の血をヒトに与えても効果が無い」

 青木の頭はこんがらがった。瓜生の話が整理できるまでしばらく時間が必要だった。

 つまり沙耶はまだヒトの血を飲んでいないヴァンパイア。

 だから竹本にも自分の祖母にも、自分の血を与えてもそれはただの血、二人をヴァンパイアにして一方には“強さ”を、もう一方には“美”を与える事はできなかったわけだ。

 だからこうして儀式を催した……。

 なぜ?

 またしても青木に疑問が湧く。青木の頭はまるで湧水の如く次から次へと疑問が湧いてくる。今夜この件が解決しない事にはそれは枯れないだろう。

「ヒトの血を飲みたきゃあ、わざわざ今夜みたいな七面倒くさい事しなくてもいいんじゃないのか? なんならそこのおっさん、竹本だったか? そいつの血をその子が飲んでその子の血を竹本に飲ませりゃ簡単に済むことだ」

 青木の発言に竹本の顔は青ざめた。恐ろしい意見だとでも言う表情で青木の顔を見ている。

「面白い意見ですね、青木さん。そこを利用した奴がいる。彼女が血を飲む事を許可せず、この場所へと導いた奴が」

 瓜生はくるりと青木に背を向け、黒板脇の扉へ体を向けた。

 おい、そのドアは一体何だ。お前さんはさっきからえらく気にしてるようだが」

「隣の部屋へ繋がるドア、どこにでもある普通のドアですよ」

 瓜生にそう言われて、青木は竹本へ視線をやり、目だけで、あそこは何だと訴えた。

「そこは準備室……我々教師の部屋だ。授業に必要な道具なんかが置いてあるだけのはずだが……」

「少し話を戻しましょう」

 瓜生は話題を変えて再び話を続けた。

「大久保さんの両親は海外に住んでいます。彼女は日本に住む事を望み、この町へやって来ました。この町に一人で住んでいる祖母のもとへ。そして不幸な事にその祖母が重い病気になってしまった……」

「そこでヴァンパイアの血か」

 青木は内心複雑だった。病気の祖母のために自分がヴァンパイアとなり、その血を与え、延命させようという彼女の優しさを責められるのか。しかし肉親の命のために他人の血を求め襲っていいという道理も無い。

 大久保沙耶が、青木を殺そうともした魔女なのか、祖母思いの孝行娘なのか、果たしてどちらが本当の彼女の顔なのだろうか。青木は判断しかねていた。

「祖母に血を与えてヴァンパイアにすれば病気も治る可能性は確かにあります。細胞自体が若返りますからね。彼女をヴァンパイアへと駆り立てた理由はこの二つ。いじめと祖母です」

 瓜生に静止されたままうなだれ、涙を流していた。彼女の目的はこの場で阻止され、暴露された。その涙は悲しみからか、それともその小さな体に背負った重い物から解放されたものなのか、それは彼女しか分からない。

 瓜生は彼女の腕を離し、優しく椅子へ座るように促した。そして沙耶の耳元で、

「君のおばあちゃんはこんなことしても喜ばないと思うよ……」

 瓜生はそっと囁いた。



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