課外授業/6
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竹本はあの日、黒いフードを被ったあの不気味な男の事を思い出した。
『鼠どもが動き出してる』
鼠?
竹本にその意味は分らなかったが、この瓜生があの男の言う鼠なのか。
その鼠は何のために動き出したのか。誰かに対して動き出したのか、皆目見当がつかない。
警察の事を鼠と揶揄しているのかとも思ったが、あの男はヴァンパイアに対して警察は動けないとも言っていた。
この瓜生が鼠だとして、一体何者なのか。自分もその対象になっているのか、竹本は不安になった。
自分はただ、力が欲しいだけだった。自分を蔑んできた連中を見返すだけの力を。
あの二人の計画通りに、二十以上も年の離れた小娘に顎で使われる屈辱にも耐えながら、言われた通りに動いた。それなのに……。
竹本の人生は常に屈辱と絶望の連続だった。
今、こうして明かりの灯った教室で得体の知れない転校生と刑事と女ヴァンパイアに自分が囲まれていても、この地球の違う場所では恋人同士がベッドで戯れたり、一家団欒の平和な家族がバースデーケーキのろうそくを吹き消しているのだろう。
なぜ自分だけが。
それが竹本には常に付きまっとていた。
夢を持ち、そんな卑屈な自分を変えるために教師の道を選んでも、結局その絶望と屈辱の淵から這い上がる事はなかった。
結局死ぬまで自分は何も変わらない。
そんな時に差し込んだ一筋の光。初めて竹本の人生がヴァンパイアの力によって明るくなる。
……はずだった。竹本の計画は狂ってしまった。狂ったというより今夜、それは完全に消滅してしまったかもしれない。
竹本は瓜生を見つめたまま、そっとポケットに手を入れた。強く握りしめられたポケットの中の折り畳みナイフは、ただただ静かにその出番を待っていた。
◆
「全員席に着きましたね」
まるでホームルームである。青木は少しむくれて瓜生に尋ねた。
「俺も参加しなきゃならねぇのか?」
殴られた後頭部はズキズキ痛み、締められた首にはまだ違和感が残ったままだった。
「できればそこにいる糞ったれに殴られた所を治療したいんだが」
「ああ、血が出てるみたいですね。でも聞いておいた方がいいかもしれない。あなたもここにいる二人と同じで、こちらの世界に足を踏み入れたんですから」
瓜生はそう言いながら青木の方へ近づき、真っ白なハンカチを差し出した。
「どうも……」
ふてくされながらも青木はハンカチを受け取り、痛みの残る後頭部にそれを押し当てた。
「わ、私はヴァンパイアなんかじゃないぞ。用があるのはそっちの大久保だけだろう。私を解放しろ」
「確かに先生はまだヴァンパイアじゃない。だけど解放はできません。私がこれからする話でそこの刑事さんがどう判断するか。それまでここにいてください」
ヴァンパイアではない、ヒトである竹本は自分の管轄外ということか、瓜生の視線に青木は目だけでうなずいた。
「私はそそのかされただけだ。そこの女と、あの男―――」
「まだ言いますか、先生。関係無いとは言わせない。そこに眠る馬原啓介―――。これだけの騒ぎが起きているのにまだ目が覚めない。よほど強い薬を嗅がされたようだ。先生の仕業でしょう? 大久保さんにはそんな強い薬を手に入れられない。あなたが隣の科学室からくすねたものなんじゃないですか」
「むぅ……」
図星をつかれたのか竹本は口ごもった。
確かに机の上の“啓ちゃん”馬原啓介は一向に目を覚ます素振りを見せない。
青木が沙耶と竹本と二回も大騒ぎしたのに、である。
「まあ、馬原君にはしばらく眠ってもらっておいた方が都合がいい。ねぇ、大久保さん?」
「どういう意味だ、瓜生」
沙耶に対し意味深な視線を送る瓜生に青木は思わず尋ねた。
「都合がいいというより彼の為にも眠っておいた方がいいんですよ、青木さん。それは順を追って説明します」
さて、と瓜生は三人しかいない教室を見渡す。
「まず、大久保さんと先生に尋ねます。ヴァンパイアの事を誰から聞きました?」
核心を突いた質問を二人にぶつけた。沙耶は相変わらず瓜生を黙って見ているだけである。竹本は違った。
「私はそこにいる大久保君に聞いた。だが、力が手に入ると聞いただけで……詳しい事は知らん」
この男はよほど自分だけ助かりたいらしい。保身のためには簡単に人を裏切るようなタイプだ、青木にはそう見てとれた。
「大久保さん?」
「……」
竹本は無視して沙耶の方に耳を傾けるが、返答はない。青木の時と同じだった。
「いいでしょう。言いたくなけれ結構です。質問を変えます。大久保さん、あなたヴァンパイアになることで禁止されている三つの掟の事は聞きましたか?」
「な、なんだそれは。私はそんな掟の事など聞いてないぞ。それは一体―――」
「先生は黙っていてください。今は大久保さんに聞いています」
諌められた竹本はしゅんとしぼんだ風船のように小さくなった。青木はその様子を腕組みして黙って見ている。
「僕の予想だと君はヴァンパイアになってすぐにその掟を教えてもらってない。どうです?」
しばらくの間をおいて、沙耶は小さく頷いた。
「掟を知ったのはつい最近の事だね」
沙耶は再び頷く。
「大久保君、君は竹本先生にヴァンパイアの話をした時には掟は知らなかった。それを聞いたのはそのしばらく後だね?」
「ちょ、ちょっと待て。どういうことだ。それじゃあまるで私に責任が―――」
瓜生が恐ろしいほどの形相で竹本を睨みつけた。
竹本は再びしぼんで黙り込んだ。その少し後ろでは、次口を挟んだら首根っこ掴んで放り投げてやろうと、青木がうずうずしている。
「もし、君をヴァンパイアにした者が最初にその掟を話しておけばこんな事にはならなかったかもしれない。残念です」
「違う! あの人はそんな―――」
取り乱す沙耶をさっきまでの鋭い視線とはまるで別人のように、とても哀しみに満ちた目で見ていた。
「そんなに彼の事を……」
青木は“彼”が誰を指すのか分からなかったが、沙耶に向けられた瓜生の哀しい目は沙耶に対する同情や憐れみのようなものを感じた。
「襲わない、与えない、話さない―――これがヴァンパイアの三つの掟、三大原則。君は知らなかったとはいえその掟を破った。それはヴァンパイアにとって罪、罪を犯せば罰を受けなければならない」
瓜生の顔はとても哀しげだった。青木には分からない。なぜ、そんなにまで沙耶に対して哀しい顔をみせるのか。掟を破ったヴァンパイアを取り締まるのが彼の仕事のはずなのに、である。
「ボクはヴァンパイアを取り締まる『ネイヴ』という組織の者です。大久保さん、ボクは君を捕まえなければならない」
沙耶はいつの間にか泣いていた。こぼれる大粒の涙を沙耶は拭う事無く、ただ泣きながら瓜生を見つめ返していた。
「だけどその前に―――」
瓜生は黒板脇の扉に目をやり、
「―――少し歴史の話をしましょうか」
そして三人に明るく笑ってみせた。




