課外授業/3
「大人しくついて来い」
青木は少女の肩を掴もうと腕を伸ばした。青木を睨む少女は肩を後ろに引き、その手を避ける。
と、またもや少女の良く伸びた爪が青木めがけて飛んできた。
顔を引っ掻こうと勢いよく向かってくる少女の手首を、ギリギリの所で青木は掴む。掴むが、ぐぐぐっと少女の手は青木の顔へその距離を縮めてくる。
少女の押し込む力が、それを止めようとする青木の力よりも上回るのだ。
五つの爪がじわりじわりと青木の顔面へと向かってくる。
青木は素早い動きでもう片方の手を使い少女の手首を両手で掴むと、相手の押し込んでくる力を利用して少女の後ろへ回り込み、掴んだ腕を背中へと押し付けた。腕の関節を逆に固められた少女はうっと小さな声で唸った。
「暴れるなよ。腕が折れるぞ。大人しくするんだ」
関節を固めたまま青木は少女の背中を押しやり、教室の壁へ押しつけた。
その様子を見て、中年男がピクリと動いたのを青木は見逃さない。力は少女の腕へしっかりと込めたまま「動くな」と牽制する。
本来なら片手で腕の関節をきめ、反対の腕で首をロックしてやりたい所だが、彼女の抵抗する力は両手でないと抑え込めそうになかった。
(とんでもねぇ力だな、ヴァンパイアってやつは)
青木も決して手加減しているわけではない。そんな余裕は無かった。
(こんな小娘でもこの力……これが成人した男なら―――)
木下があの短時間で襲われたのも納得がいった。
「さあ、署まで来てもらうぞ」
青木の本心は彼女を署に連れて行く気など初めから無かった。正直、この数分で自分の手に負える相手ではないという事が分かったのだ。とりあえず瓜生が来るまでの時間を稼ぎたい。あいつの言った通りここへ来るのなら……。
(何を道草食ってやがる。早く来やがれ)
今日会って間もない男を頼りにするなど情けない話だと青木は思うが、瓜生を信じて時間を稼ぐしかないのだ。
だが無情にも青木の目論見は外れてしまう。
「い、痛い……」
少女はか細い、甘えた声で嗚咽を漏らした。青木はその声を聞いて一瞬だけ、ほんの一瞬だけ力を緩めてしまったのだ。
少女はその一瞬の隙を見逃さなかった。反対の腕を伸ばすと青木の肩を掴み、爪を青木の肉に食いこませた。細く長い爪は青木の服を簡単に突き破る。
「この野郎……」
青木の白いシャツは徐々に赤く染まっていく。
激痛に耐えかねた青木は掴んだ腕を離し、少女の喰い込んでいく腕を振りほどいた。体を離れる瞬間、頭に血の登った青木は彼女の顔めがけて平手を一発お見舞いするのが精一杯だった。
「い……痛いじゃない!」
青木の一発に逆上した少女は再び青木に襲いかかった。それは獲物めがけて飛びかかる狼のごとく獰猛で、殺気に満ち溢れていた。青木に狙いを定めている少女の眼球もすでにヒトのそれを成してはいない。
(まずい)
そう本能で悟った青木は咄嗟にしゃがみ込み、覆いかぶさってきた少女の腹部を持ちあげ、勢いよく後ろへと投げ捨てた。
宙を舞った少女の体は、乱雑に並べられていた椅子や机の上へがしゃんと派手な音を立てて落ちた。
「大人を舐めんなよ、糞餓鬼が」
これで少しは大人しくなるだろうと、青木は首をコキコキと鳴らして少々荒れた呼吸を整えながら、今度は相変わらず怯えている中年の男へと姿勢を向けた。
「さあ、先生……だっけか? 次はあんただ。一緒に来てもらうぜ」
すると男の顔色がみるみるうちに変わり、視線は青木ではなくその後ろへと送られた。
「なに!」
それに気付いて振り向いた時はもうすでに遅く、少女の右手が青木の首を掴んでいた。髪はボサボサに乱れ、青木に投げられた拍子に上着の一部が破れている。
どんどんと握力が加えられる手を、青木は両手で必死に剥がそうとするが首に食い込んでくる指は離れない。それどころか青木の手を払いのけ、少女は両手でさらに青木の首を締め始めた。
(や……やばいな、こりゃあ)
青木の首は呼吸をすることが困難なほど締め付けられている。
少女の表情は殺気に満ち溢れ、青木をこのまま絞め殺すという意思がはっきりと見て取れた。
「お……大久保くん」
流石にこの場所で殺人が起きてはまずいと思ったのか、青木の後ろで中年の男が小さな声で呟いた。
青木はそれどころではなかったのだが、男が少女の名前をうっかり言ってしまった事に気付いた。
(お、大久保。こいつの名前か……)
青木の意識は少しずつ薄れてきて膝の力も立っているのがやっとだったが、潰されつつある喉から何とか声を絞り出した。
「お……おおくぼ……手を……はな……せ」
自分の名前を呼ばれ、大久保沙耶は目をカッと見開き、後ろにいる男へ大声で怒鳴った。
「黙ってろぉ、竹本!」
怒鳴られた竹本はひぃっと悲鳴にも似た声を上げ縮こまった。逃げ出そうにもあまりの彼女の変貌ぶりに足が動かない様子だ。
ここへきて、青木はようやく二人の名前を知ることとなった。
意識が青木から竹本へ移ったせいか、沙耶の締める力がわずかに緩む。
「せ……先生も心配してるぜ。お……大久保」
「うるさい! あんたの血なんか飲む価値もないわ。さっさと殺して啓ちゃんの血を飲むの」
(啓ちゃん? 机の上の、あいつか……?)
最早、沙耶は冷静ではなくなっていた。自分が何を口走っているのかも気付いていないのだ。
(啓ちゃんってことは知り合いか。そんな風に呼ぶくらい親しい人間の血を吸おうっていうのか、こいつは……)
青木には理解できなかった。見ず知らずのヒトではなく、想像でしかないが、この少女は親しい友人を騙してここへ連れてきて意識を無くし、食事にありつこうとしているのか……。沙耶の両手を掴む青木の腕にも力が入る。
自分の首を絞め、殺そうとしている沙耶の顔を、改めて間近で見た青木はふと気付いた。
(この顔……。大久保と呼ばれたこいつの顔……見た事がある)
薄暗くて気付かなかったが、近くで見るこの顔―――。
(どこだ。どこかで見たはずだ。そんなに前じゃない。つい最近だ。思い出せ、思い出せ……)
青木は締め殺されかけているというのに、痛みも苦しさも忘れてこの魔女の様な少女の顔を思い出すことに全神経を集中していた。
「……江津湖で会ったな、お嬢ちゃん」
沙耶は驚いて目を見開いた。動揺したのか両手の力が完全に緩んだ。
「ごほっ、ごほっ」
圧迫されていた気道がやっと自由になり、脳が欲していた量の空気が肺に流れ込む。すぐさまこの憎たらしい女ヴァンパイアに反撃したかったが、青木の体へのダメージはそれを許さなかった。
唯一出来たのは少女の体を自分から突き放す事だけだった。
沙耶はしまったという顔をいている。
「思い出したぞ。お前と会うのは今日二回目だな」
青木は思い出した。
青木の脳裏に甦ったのは木下を襲った犯人を追いかけている途中、カーブで出会いがしらにぶつかったあの女子高生の顔だった。




