課外授業/2
(まさか……嘘だろ)
青木は壁に手を当て、ふらつく膝を抑えながらゆっくりと立ち上がった。腰の曲がった老人の様にまだ背中は丸まったままだ。
青木はまだ信じられなかった。青木の体重は六十五キロ、いや最近太ったから六十七キロはあるその体を、あの少女は後ろから子猫の首を持つかのように軽々と持ち上げ、放り投げたのだ。
(十七、八の小娘に俺は放り投げられたのか?)
少女は腕を組んでこちらを見ている。逃げようと思えば逃げられたはずだ。
だがそうはしなかった。
男の方は驚いて逃げるタイミングを失ったのだろう。だが少女は違う。
なぜか?
自信があるのだ。大の大人、しかも刑事相手にこの年端もいかない少女は逃げるまでも無い確固たる自信がその得意げな表情に現れていた。
「……何か言ったか?」
投げられたことも無かったかのように、青木は痛みを堪えながら少女に問いかけた。
「さっき何かいったよな、御嬢ちゃん……?」
少女はそれを聞いても不敵な笑みは崩れない。その後ろではあの中年男が鯉の様にパクパクと口を動かしていた。
「わざとらしいとか聞こえたが……どうだ?」
「うふふ」
「おっと、お前はそこを動くなよ。このお嬢ちゃんに少しばかり話があるんだ」
青木は中年男に念を押した。
「さあ、聞こうじゃねぇか。何がわざとらしいんだ」
「はっきり言えば、刑事さん? 私たちが勉強してるなんてこれぽっちも思ってないんでしょ。だからわざとらしいって言ったのよ」
「なるほどね。確かにわざとらしかったかもな。それで……これはどういうつもりだ?」
青木はさっきまで自分のいた位置を指さして、そこから放り投げられたドアまで空に線を引いてみせた。
油断していたとはいえ、こんな子供に放り投げられたのだ。青木にとってそれは屈辱でしかない。
「いきなり後ろからとは随分な事してくれるじゃねぇか。これで公務執行妨害……お前らを署まで連れてく理由ができたな」
痛めた腰を伸ばしながら青木は少女へ近づいた。
「おっと……」
突然殴りかかってきた少女の腕を青木は咄嗟に掴んだ。
これまで様々な暴君相手を相手にしてきた青木にとって、喧嘩の素人の様な少女の攻撃を正面から受けるほど衰えてはいない。くぐってきた修羅場の数が違うのだ。
腕を掴まれた少女はギリギリと歯ぎしりをする。
「お行儀がよくねぇなあ、お嬢ちゃん」
とはいうものの、青木の腕を振りほどこうとする少女のか細い腕は、青木が片手で掴んでいるのもやっとなくらい、どんどん圧力がかかってきた。
(これは……)
青木の掴んだ腕にもぎりぎりと力が入っていく。
(なんて力だ。これが……これがヴァンパイアの力かよ)
青木はこの少女がヴァンパイアであると改めて確信した。
ヴァンパイアについて瓜生は五感と運動能力がヒトよりも進化していると言っていた。この十代の少女とは思えない力もヴァンパイアがヒトよりも進化しているという証拠なのだろうかと、青木は思ったのだ。
すでに青木は全力で彼女の腕を掴んでいる。
「てめぇがヴァンパイアか」
青木は確信をついた。
ヴァンパイアという単語を聞いて少女は一瞬ハッとした。が、次の瞬間自由になっている方の腕を青木の顔面めがけて素早く振りぬいてきた。
間一髪のところで青木は体を反らせてそれをかわし、少女の腕は空を切った。
(あぶねぇ)
だがそう思った頃には青木の腹部にはどんっと大きな衝撃が走っていた。
少女は腕での攻撃が空振りした直後に、青木の腹めがけて蹴りをお見舞いしていたのだ。
「ぐぅっ」
そのカウンターに青木は後ずさり、掴んでいた腕を離してしまった。
「私に触らないで」
少女はぷらぷらと自由になった腕を振り、ふんと鼻を鳴らす。
「せっかくの食事を邪魔しないでよ、おっさん」
腹を蹴られた瞬間、青木の呼吸は止まってしまい、大きく咳きついた。かろうじてよけたはずだったが、青木の鼻先は小さく切れ、つうっと細い血がつたっている。よく見ると少女の爪は鋭く伸びていた。
「この餓鬼……」
「あら、血が出てるわ。でもあんたみたいなおっさんの血じゃ全然そそられないわね。まるでゲテモノ料理みたい。これ以上痛い目に合いたくないならさっさとここから出てってよ」
自分が完全に優位に立っていると確信したのか、少女は汚い言葉を青木にぶつけてくる。
「今夜、ここは神聖な場所なの。あんたみたいなおっさんが来ていい場所じゃない。なんでヴァンパイアの事を知ってるのか知らないけど目ざわりよ。それとも私に血を吸ってほしい変態さんかしら?」
ここまで言われて黙っているほど青木も大人しくはない。呼吸を整え、姿勢を整える。
(こいつはとんでもねぇ悪女だ。女だからといって手加減なんかしてられねぇな。ヴァンパイアなんだ、ヒトじゃねぇんだこの餓鬼は。さあてどうするか……)
喧嘩の場数では青木が圧倒的に多いが、腕力ではかなり分が悪そうである。
(情けねぇがなりふり構っちゃいられねぇな)
女に、しかも未成年相手に手を上げる事には抵抗があったが、こいつはヒトじゃない、化け物だと青木は自分に言い聞かせ、気持ちを奮い立たせようとしていた。
「調子に乗るなよ、糞餓鬼が」
「あら、警察官がこんないたいけな女子高生に対してそんな乱暴な言葉使っていいのかしら」
「いたいけな女子高生が警官ぶん投げたりするかよ。笑わせんな。お前を署まで連れていくぜ。力ずくでもな」
「ふん、出来るかしら」
中年の男はその二人のやり取りを逃げ出すのも忘れて、教室の脇で黙って見ている。
アルコールランプの炎がひとつ消え、室内の明るさが少しだけ薄くなった。




