課外授業
(冷静になれ、冷静に)
青木は何度も頭の中で繰り返した。
(こんな小娘に何を動揺している? 平気で嘘をつけるような女だ。惑わされるな)
青木は自分に言い聞かせる。
(勉強だと? 笑わせるな。こんな暗がりで何を言ってやがる。そんな見せかけの涙なんか流しやがって……)
誰がどう見てもおかしな状況をこの少女は平然と勉強だと言ってのけ、詰め寄ってきた事に青木は少し怯んでしまった。
青木がまだ警官になり立てで交番勤務だった頃、スーパーで万引きした少女もこんな顔で必死に許してくれと懇願してきた。
その時も青木はその表情に動揺し、(今回だけは大目に見ても……)と思った所で先輩の巡査長に叱られた。
その大きさに関係なく、罪を犯した人間に対する心構えの基礎はその時に固まったつもりでいた。
まさかここにきてまたも少女の涙に動揺するとは思いもよらなかった。
さっきまでこの少女はそこに横になっている男の血を吸おうとしていた。少女の持つ、魔女の様な側面を青木は自分の目で確認したのだ。
(魔女の涙に惑わされるな)
少女は目に目に涙を浮かべて必死に教師と思われる男を庇おうとしている。その一方で男は怯えた表情で青木を見つめ、震えていた。
慌てて教室に飛び込み警察と言うフレーズで二人の動きを止めはしたものの、いつ二人が逃げ出すかも分からない状況である。
机に寝かされた男の安否を確かめたい気持ちもあるが、この二人から目を逸らすわけにもいかない。
青木から二人の距離はおよそ二メートル。青木が開けたドアとは反対側のドアは二人の方が距離が近い。二人が一斉に逃げだされた場合、両方同時に捕まえるのは至難の業だ。
(どちらを先に確保するか。男か女か……)
青木は二人の動きを十分に注視しながら左手に持っていた警察手帳をポケットにしまった。
じりじりとした緊張感が教室に張りつめている。
黒く長い髪を後ろでひとつに結んだ少女の顔が、炎の光でちらちらと影を揺らす。
「名前は?」
青木は少女の涙から目を逸らすように尋ねた。怯える男の方にも目をやり、二人同時に尋ねたつもりだった。
「……」
二人とも答えない。
「君はこの学校の生徒か? あんたは……生徒じゃなさそうだ。この子の言うようにここの教師なのか? どうなんだ、え?」
青木は皮肉っぽく男の方を見て尋ねた。少しずつ自分のペースを取り戻しつつあった。少女の涙に動揺したのは一瞬だけだった。
「身分証は持ってるか? いつまで黙ってるんだ。やましい事が無いなら二人とも答えられるだろう?」
「……」
返事はない。気まずい沈黙が続く。
青木もあえてまだ机の上の少年については触れない。この少女の言う事をとりあえず信じるフリをするのだ。突然現れた警官への警戒心をまずは和らげてから、少年についてはそれからでいい。
「答えれない? ん? 俺は別にあんたを捕まえに来てるわけじゃないんだ。一応、名前くらい聞いておかなきゃならない。そういう仕事なんでね」
青木が一歩、男の方へ近づくと男はじりっと後ろへ下がった。異常なほど警戒している。
(やっぱり、こりゃあただ事じゃねぇな)
二人の目的は分かっている。だがそれに気付いていない、偶然ここへ来た、そういう演技をするのだ。
相手のどちらかはヴァンパイア。もしかしたら両方かもしれない。少女の方は確実にそうだろう。実際に青木は彼女が少年の血を吸おうとしているのをこの目で見たのだ。
男の方はどうだ。青木が覗いていた時からどうもこの冴えない中年の男はずっとビクビクしていた。ヒトを餌にする様なヴァンパイアにもこんな臆病な男がいるのだろうか。
とにかく相手がヴァンパイアの可能性がある限り、時間を稼ぎたい。そう、瓜生がここへ来るまでの時間を。
黙秘を続ける二人を目で牽制しながら、青木はそんな事を考えていた。
少女の涙はいつの間にか止まり、恨めしそうな目で青木を見つめていた。
「もう一度、もう一度だけ聞く。早く俺から解放されたいなら答えてくれ。二人共だ。いいな? 名前は?」
青木は二人を交互に見比べる。正面に少女、右手に中年の男。
沈黙は破られなかった。
(まいったな……。どうするかな)
あまり悠長に構えている時間は無い。いつ二人が一斉に逃げ出すかわからない。今度は逃がすわけにはいかない。
「答えたくない……か」
青木はふぅっと息を吐いた。
「じゃあ、勉強している所を悪いが二人には署まできてもらうしかないな」
「しょ? 署だと? なぜ私が……」
やっと口を開いた男は署に連れて行かれると聞いて狼狽した。
「当然だ。名前も言わない、何をしていたのかも、だ。彼女は未成年……そうだな? その未成年を成人男性のあんたはこんな時間に連れまわしてる。一般的にも褒められた事じゃないよな?」
「連れ回してるだと? 私が?」
「違うのか? まさかこんな子供にあんたは連れ回されてるとでも言うのか?」
青木はわざと惚けてみせた。後ろの少女に細心の注意を払いながら少しずつ男の方へにじり寄って行く。この冴えない臆病な男の逃走意識を無くさせる、それが目的だった。目的だったのだが……。
「……わざとらしい」
「?」
小さな声が青木の耳をくすぐった。
と同時に、視界に入っていたはずの中年男が消え、青木の体は宙を舞い、大きな音とともに入ってきたドアに激しく打ち付けられた。
「ぐぁっ」
何が起きたのか、なぜ自分の体が飛んだのか、青木は理解できなかった。
男を正面に見ていたはずが、いつの間にか世界は百八十度回転し、背中と腰に強い痛みが襲って来たのだ。
壁を背に両足を広げて尻もちをついた青木の態勢はまるで部屋に置かれた熊のぬいぐるみのようだ。
青木はしばらく動けなかった。あまりに一瞬の出来事で、青木の思考と感覚に大きく時差ができて思うように体が動かないのだ。
「いつつ……」
しかめた顔で、したたかに打ちつけた腰のあたりをさすった。
徐々に感覚を取り戻してきた青木は、首を動かさず視線だけで二人を確認した。
中年の男は逃げもしないで、間抜けな驚いた顔でこちらを見ていた。
そして少女は――――――。
(ま、まさか……)
さっきまで涙を浮かべていた少女が、今は腕を組み、唇を釣り上げ勝ち誇った顔で青木を見下ろしていた。




