夕餉(ゆうげ)の支度/6
沙耶は食卓に並んだ高級料理を眺めるかのように馬原啓介の体を眺めている。
すでに彼女の目にはヒトの姿ではなく、食材の一つにしか見えていないのだろう。
沙耶が誰を餌として校舎に連れ込むのか、竹本は興味があったがまさか同級生を連れてくるとは……。
特に馬原啓介に恨みは無いが、まさか殺しはしまいと竹本は罪悪感を押し殺して彼にクロロホルムを染み込ませたハンカチを顔に押し当てたのだった。
「まだ始めないのかね?」
食事を前にしてもったいぶっている沙耶に竹本はしびれを切らし尋ねた。
上機嫌だった沙耶はキッと竹本を睨みつける。
「ほんとあなたって女心が分からないのね。女にモテないわけだわ。黙ってそこに立ってりゃいいのよ」
「君の指示には従うが早くしてもらえないかと思ってね。いつ誰か学校に来るかも分からない―――」
そこまで言いかけて竹本は黙った。竹本を睨む沙耶の眼がまたあのヴァンパイアの眼になったのだ。
ヒトの血を飲んでいなくてもふとした事でヴァンパイアの地が出るのだろう、竹本はその人間離れした瞳が何度見ても恐ろしかった。
これから自分もその一員になろうかというのに……。
沙耶はゆっくりと膝を曲げ、視線を机の上に横になった啓介の顔の辺りまで下げた。そして小さな声で、
「ごめんね、啓ちゃん」
と囁いた。
竹本にもその声は聞き取れたが、沙耶がどういう気持ちでそう言ったのかは理解できなかった。ただ単に血を吸う事への罪悪感か、それ以外の何かか。
どんな心境であれ竹本は興味が無かったが、これまで魔女の如くだった沙耶が見せたその瞬間の表情は、十代の少女らしい優しいものだった。
沙耶はその優しい表情のまま意識の無い啓介の唇に自分の唇を静かに重ねた。そして沙耶の顔はそのまま啓介の左の首筋へとゆっくりと移動して行く。
(いよいよか……)
竹本はその様子を見ながらゴクリと喉を鳴らした。
ヴァンパイアの存在を知っていてもそれが血を吸う瞬間を見るのは初めての事である。明日から自分もこれをしていかなければならない。竹本はお手本を見るかのような心境でその行為に見入っていた。
啓介の首に愛撫するかのように唇を当てるその沙耶の様子に竹本は若干の興奮すら覚えた。
その時―――。
どこからともなく大きな音楽が校舎に響き渡った。音は廊下の方から聞こえてくる。
今夜、この学校に誰もいないと信じ切っていた竹本は混乱した。ふと目をやると沙耶の方も食事を邪魔されてひどく慌てて音の鳴る方へ目をやっていた。
そして焦りながらも二人の視線は交差した。
沙耶の竹本を見る目は、竹本の失態を攻めるかのようだった。
(違う。私はちゃんと校舎中を回って確認した。誰もいなかった。それは間違いない。そんな目で私を見るな……)
そう言いたげに竹本は首を何度も横に振った。
すでに竹本の毛穴とうい毛穴は開き、とてつもない量の汗が体中から噴き出していた。
早くここから逃げ出そうと身を乗り出した瞬間、バアンという大きな音を立ててドアが開いた。ふっとアルコールランプの炎がひとつ消えた。
「警察だ! 二人とも動くな」
飛び込んできた男は左手に黒い手帳の様なものを掲げ、大きな声で怒鳴った。
竹本と同じように逃げ出す態勢でいた沙耶もその声で金縛りにあったように動きを止めた。
(け・い・さ・つ? 警察だと?)
同僚の教師でも、学校の生徒でもない、ましてや警備会社の人間でも。
突然現れた男は警察と言ったのだ。
竹本は自分の耳を疑った。
(なぜ警察が……こんな所に)
少年を襲ったあの夜の事が竹本の頭をよぎる。
三人の間に気まずい沈黙が続いた。お互いがお互いを凝視し、固まってしまっていた。
そのほんの一瞬の時間が竹本には物凄く長く感じた。
「こんばんわ」
最初に沈黙を破ったのは警察を名乗る男だった。
「何をしてるんです?」
口調は優しかったが、その目つきは鋭さを維持したままだった。
竹本はその警察の男の問いに答えたかったが、緊張のあまりうまく返答できないでいた。
「そっちこそどうしたんです?」
答えたのは沙耶だった。その声に動揺は見られない。さっきまでの魔女ではない、冷静に対応する沙耶は普通の少女の姿に戻っていた。
「警察の方? 制服じゃないって事は刑事さん? 一体どうしたんですか」
「ああ、失礼。私は東署の青木刑事というものです」
青木と名乗った男は改めて警察手帳をかざして見せてきた。
「いやあ、学校の前を通ったらゆらゆらと光が見えたんで何事かと思いましてね……」
口元に笑みを見せながらも机の上に横たわる啓介の姿をチラリと見た青木を竹本は見逃さなかった。
「別に何も。この前のテストの成績が良くなかったんで特別に勉強を教えてもらうところだったんです」
沙耶は腕を組み、ふぅっとため息をつきながら答えた。
(そんな言い訳が通じるものか。誰がどう見ても状況がおかしいのは明らかだ……)
沙耶は居直っているようだが、竹本はいつでも逃げられる態勢で腰が引けている。竹本は心配そうに沙耶を見つめるが、相手はこちらを見向きもしない。
「勉強? じゃあ君はここの生徒か。こちらは先生……」
青木が視線をこちらに向けたので竹本はビクついて背筋が伸びた。
一方では沙耶がしっかりしろとでも言いたげな表情で竹本を睨んでいる。
「女生徒とこんな時間に二人きりとはあまり良くないんじゃないですか、先生。いくら勉強のためとはいえ―――」
「私が頼んだんです。私が先生に無理を言って……」
刑事の言葉を遮るように沙耶が怒鳴った。第三者の目には教師を庇う、いたいけな女子生徒に映るだろう。
見事な演技力に竹本は感心した。うっすらと涙まで浮かべている沙耶はまさに女優の様だ。
刑事も突然女生徒が詰め寄ってくるので少し動揺していた。
だがこれで誤魔化せるほど甘くは無い。机の上の意識の無い少年をどう言い逃れするのか。そう簡単に騙せるほど日本の警察も甘くないだろう。
竹本は自分を庇うフリをする沙耶をよそにいつ逃げ出そうか、そのタイミングばかり図っていた。




