夕餉(ゆうげ)の支度/5
あの男は物音ひとつ立てずにいつの間にか生物準備室に入って来た。
暗くて顔は見えなかったが、不気味な男が一瞬見せたあの目はまさしく沙耶が見せたあの同じ眼、およそ人間の物とは思えないあの眼だった。沙耶とは全く違う恐ろしさがその男は醸し出していた。
聞けば前日にあの大山をはじめとする学校のクズ達を病院送りにしたのは自分だ、と言う。
クズたちがやられたと聞いて竹本は飛び上がるほど嬉しかったそのニュースはこの不気味な男の仕業だった。それを聞いて竹本の歓喜は恐怖へと変わった。
そんな複数相手を相手にしても物ともしない男とこの狭い部屋に二人きりなのだ。
男はさらに言う。
「目立つな」
竹本の行った実践練習の事だった。
だがそれは沙耶の指示だった。力をくれるといういう条件があったからこそ、あんな危険な行為に及んだのだ。この男にそんな事言われる筋合いがあるものか。
男が去り際に行ったあの言葉、
「アイツにアレをやったのが俺だよ」
アイツとは沙耶、アレとはヴァンパイアの血。つまり沙耶をヴァンパイアにしたのはあの男の血だったのだ。
後日、竹本は沙耶に問い詰めた。あの男はやって来た事、そして「目立つな」という言葉を残していったこと。
それを聞いて沙耶の顔色は青くなった。沙耶が竹本にヴァンパイアの話をした事に、あの男はえらく憤慨したらしい。掟に逆らったのだ、と。
竹本は慌てた。
「じゃあ、力は手に入らないのか?」
「大丈夫。何とか説得して今回だけは許してくれたわ。でも次はない、と。もしあなたが誰かにヴァンパイアの事を話す様な事があったら……」
沙耶は語尾を濁した。
「……あったら?」
「……あなたを殺すって」
竹本は絶句した。昨日も直接あの男に言われた言葉だ。とんでもない事を知ってしまったのだ。力に目がくらんで踏み込んではならない世界の一線を越えてしまったのだ。
そして沙耶はあの男の立てた計画を語りだした。竹本をヴァンパイアにさせる計画を。
聞けば沙耶の血ではヴァンパイアになれないらしい。なぜなら沙耶はまだヒトの血を飲んでいないかららしい。ヴァンパイアの血を飲み、ヴァンパイアとなってもヒトの血を飲まなければ力が目覚めないのだ。
なぜヒトの血を飲まないのか、と沙耶に尋ねると、「あの男がまだ許してくれない」そうだ。
竹本は、
「君はわざわざ晩飯を食うのもいちいち人に許可をもらうのか?」
と、からかう様にわざと笑いながら沙耶を見た。
そもそも許可だ、何だと言っていては餓死してしまう。あの男にどれほどの権利があるというのだ。竹本はそう疑問に思ったのだ。
竹本の言葉に沙耶の顔色は真っ赤に変化した。
「いい? あなたもヴァンパイアになりたいならあの人の事を軽々しく批判しない事ね。私がなんであの人の言いつけを守るか分かる?」
その表情は怒りとともに恐怖さえも含んでいるようにも見えた。
「あの人は―――人を殺してる」
「え?」
竹本は聞きなれない、普通の会話ではまず聞く事の無い言葉を聞いて思わず面喰った。
「人を……殺してるだと?」
「そう。あの人にとってヒトは食卓に並ぶ牛肉や鶏肉と一緒なの。何の感情も抱いていない。食材の中で生活している感覚なのよ。あなたにヴァンパイアの話をしたと聞いてあの人はあなたを殺すって言ったわ。でも私は必死に説得してなんとか思いとどまってくれた」
竹本は自分の知らない所でこの沙耶に命を救われていたようだ。
だが、なぜそこまでして自分を庇うのか、竹本には分からなかった。
愛か?
そんなはずは無かった。十代の娘が四十過ぎの男に惚れるはずも無い。しかしそのまさかが―――。
「勘違いしないでね。私先生の事なんかこれっぽっちも何とも思ってないから。いじめられていたのを同情した私が馬鹿だったわ。私のせいで人が殺されるのなんて気持ち悪いから」
竹本の妄想は一瞬にして崩れ去った。
心のどこかで、わずかだが沙耶が自分を好きで近づいてきたのではないかという下心が竹本の中に存在していたのかもしれない。
「そ、それは悪かったね」
「ふん。とにかくヴァンパイアにはヴァンパイアのルールがあるみたいなの。無闇に同族を増やしちゃいけないんだって」
「じゃあなんであいつは君を………」
「ふふ。あの人は恐いけどゴミみたいな私をに優しくしてくれた。あの人はすごいわ。あの人のおかげで私の人生は明るくなったの。あの人のおかげで……」
あの男を語る沙耶の目はまさに恋する乙女だった。
そう言う事か。竹本はあの男と沙耶の関係をその表情を見て悟った。何があったか知らないが、つまりは二人はそういう事なのだろう。自分に気があるのかもしれないなどと着た死した自分が恥ずかしい。
「彼があなたをヴァンパイアの仲間にする計画を立ててくれてるの。いい? あなたの為に」
殺すとまで言っていた男が急にどんな心変わりだと竹本は思った。多少不信に思ったが、沙耶の言うとおり次の連絡を待つことにした。
連絡を待つ事数日、竹本も沙耶も普通の学校生活を送った。まわりから怪しまれる事の無い用に学校では目も合わせなかった。例え竹本の方から催促の視線を送ったところで、沙耶の反応はとても冷やかなものだった。
そして報せは届いた。
明日の夜八時に学校で
沙耶からのメールはいたってシンプルだった。
竹本の心は躍った。ようやく届いた報せにその時が来るのが待ち遠しかった。
準備室に一人息を潜めて籠もり、全教師が帰って行くのを早く早くと心の中で急かしていた。
そして竹本はふと自分のカバンに目をやった。
約束の日までの間に護身用としてインターネットで購入した小さな折り畳みナイフ。決して自分をいじめる連中に対しても使う事の無かったそのナイフを竹本はそっとポケットに忍ばせた。
殺すという物騒なフレーズを聞いた時に竹本はこの凶器を購入する事に決めた。
彼女を信用していない訳じゃないが、用心に越した事はない。
そしていよいよその時間は訪れた。
約束の時間に現れた沙耶は薄い化粧を施し、いつもより大人びて見えた。
初めての食事を得られる喜びが、時折見せる頬笑みに竹本の目にはまるで魔女の様にも映った。
計画はこうだった。
まず沙耶がお相手、つまり餌を校舎内へおびき寄せる。場所は一年の教室。
竹本は隙を見て後ろからクロロホルムを嗅がせ、意識を無くさせる。くれぐれも慎重に、暴れられないよう、慎重にである。
そこからは沙耶の指示に従い、ディナーを無事に済ませる。
竹本の一族への転身はその後ということだった。
その計画を語る沙耶は嬉々としていて、不気味だった。
竹本は黙ってその話を聞いていたが、目的を成し遂げたならこの女とも関わりを断たねばならない、本能が彼女の危うさを感じ取っていた。
そしてあれから姿を現さないあの男。沙耶の裏にいるヴァンパイア。
こいつらから解放されて自由の身になってこそのヴァンパイアの力なのだ。竹本は誰も残っていないか暗い校舎内を見回りながら心の中で何度もそう繰り返した。




