夕餉(ゆうげ)の支度/4
車に戻ると竹本は意気揚々と沙耶に報告の電話を入れた。
襲った中学生に顔を見られてない自信があったし、証拠も何一つ残してはいない。完全犯罪、完璧な狩りだった。
これで力が手に入る。これまでの無様な人生ともおさらばできる。竹本は興奮していた。
それにしてもこれは病みつきになる。竹本は実践練習を無事に済ませられた事で気持ちが大きくなっていた。
「……もしもし」
沙耶が電話に出た。声を殺して話しているようで聞き取るのがやっとの声量だった。
「やったぞ、大久保君。君の言った通り練習してきたぞ。私はやったんだ」
竹本は興奮を抑えきれず、自然と声も大きくなっていた。
「そう……」
沙耶の反応は驚くほど冷めた反応に、竹本は拍子抜けした。それはまるで百点のテストを自信満々に持ち帰った子供に対して、母親が「それがどうした」とでも言う様な冷酷さだった。
「や、約束は守った。誰にも見られていないし、ちゃんと君の指示した場所で練習したんだ。次は君の番だ。君が約束を守る番だ」
沙耶の予想外の反応に焦った竹本は電話口で捲し立てた。どうも様子がおかしい。
「ちゃんと約束は守ってくれるんだろうな? 俺は犯罪を犯したんだ。早く、早く力が欲しいんだ。いつくれる? 明日か、明後日か?」
電話の向こうの沙耶は黙りこくっている。電話が切れてるのかと、携帯電話の画面を確認するほどだった。
「……また連絡します」
それだけ言って沙耶は電話を切ってしまった。
竹本は目の前が真っ暗になった。そして自分がついさっきやってしまった行いを改めて思い返し、体中から嫌な汗が噴き出してきた。
(どうしたんだ。何かやばい事になったのか。いや、そんなはずはない。あの場所には私とあの少年だけだった。誰もいなかった。ばれてはいない。ばれてはいない……)
急に恐ろしくなった竹本は急いで車を走らせ、自宅へと帰った。そしてその日も一睡もできなかった。
沙耶が連絡してきたのはそれから五日程してからだった。
それまで新聞やテレビのニュースであの夜の事が出てこないか、いつ警察が自分を尋ねてきやしないかと不安に押しつぶされそうになっていた。しかも沙耶に連絡しても一向に返事が無かったのだ。まさに生きた心地のしない日々だった。
そんな時にかかってきた沙耶からの電話はまさに救いの女神だった。
その日のうちに竹本は沙耶に呼び出され、江津湖へと向かった。あの場所に行く事はいい気持ちがしなかったが、力を手に入れるために渋々出かけて行ったのだった。
久しぶりに顔を合わせた沙耶はあの夜の電話の時とは別人のように明るく、上機嫌だった。時々腕を絡めて来て竹本を困らせた。生徒と腕を組んでいる所を見られるなどたまったものではない。
「ここね」
竹本が少年を襲った場所で二人は足を止めた。
竹本はあの夜を思い出し、身震いした。いくら力が欲しいとはいえ、恐ろしい事をしたものだ。
「おめでとう。約束通り力をあげるわ」
「ほ、本当か」
「本当よ。ちゃんと約束守ってくれたしね」
竹本は嬉しさのあまり飛び上がりそうになった。しかしあくまでも生徒の前という事もあり、それをぐっと堪えた。
「で、何をくれるんだ? どうやったら力が手に入るんだ?」
そう言えば竹本は『力』としか知らなかった。それが何を意味し、自分がどうなるのかを知らなかった。知っている事といえば、彼女がヴァンパイアという事だけなのだ。
「まさか……君が私の血を吸うと私がヴァンパイアになれる……のか?」
竹本の知っている吸血鬼に対する知識はそうだった。吸血鬼に血を吸われたものも吸血鬼になる、そう映画で見た。
少し怯えながら尋ねた竹本を見て沙耶は明るく笑った。
「そんなわけないじゃない。先生の血を吸うとか考えただけで嫌だわ」
よくそんな人が傷つくような事を平気で、しかも笑いながら目の前ではっきり言えるもんだ、竹本は苦笑いするしかなかった。
「あのね、ヴァンパイアになるにはヴァンパイアの血が必要なの」
「ヴァンパイアの血?」
「そう。ヴァンパイアの血をヒトが一口飲めばヴァンパイアになれるの」
そんな簡単なことで力が手に入るのか、竹本はますます力を手にいれたくなった。血を飲むだけで強くなれる。そんなうまい話があるとは思いもしなかったのだ。
「じゃあ君の血をくれるのか」
沙耶は笑いながら首を横に振った。
「残念。それは無理」
「なんだと? それじゃあ約束が違うじゃないか」
「慌てないで。ヴァンパイアの血はあげるわ。まだ私の血じゃ駄目なの」
ここまで来てこの小娘は焦らすのかと、竹本はいい加減腹が立ってきた。この笑った顔もどこか自分を弄んでいるように見えてきたのだ。
「どういう事だ。君もヴァンパイアだろう―――」
「しっ。そんな大きな声出さないで。誰かが聞いてたらどうするのよ。馬鹿じゃないの」
大の大人が湖のほとりで年端もいかない小娘に怒られている、なんとも滑稽な光景である。
「いい? ヴァンパイアの噂があなたのせいで広まったら私まで殺されちゃうの。気をつけなさいよ」
殺されるとは穏やかでない。竹本はヴァンパイアという存在の危うさを力欲しさに見失っていた。
確かにそんな連中が人間に紛れ込んでいるとしたらこんなに危険な物は無い。
いつ自分が昨日の少年の様に狩りの対象になるかも分からないのだ。
しかしである。自分がそっち側になればそんなものは関係ないと開き直れる竹本も彼の中に存在していた。
「悪かった。気をつけるよ。で、いつになったら血がもらえるんだ私は」
沙耶の表情は一変して険しいものになった。
「ちゃんと計画は動いてるわ。だからその時が来るのを我慢して待って。くれぐれもヴァンパイアの事を他の所で口にしないで」
竹本はただ黙って沙耶に従うしかなかった。まだ待たされる事には納得できなかったが「殺される」という物騒な単語が出てきた事で、彼の中にもより慎重に動かなければという意識が芽生えたのだ。
夏休みが終わり、新学期が始まっても『その時』はやって来なかった。
休み明けに早速不良たちが竹本の事をおもちゃにしに来たが、竹本は耐え続けた。
そしてある日の放課後、やって来たのはあの男だった。




