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夕餉(ゆうげ)の支度/3

 その日、大久保沙耶が竹本に約束したのは二つの事だった。

 一つはヴァンパイアの存在を絶対に口外しないこと。もう一つは狩りの練習をすること。

 一つ目の約束は簡単だ。

 ヴァンパイアの存在など端から信用していなかったし、誰かにそんな事を言った所で大笑いされるのが関の山だ。

 信用していないとはいえ、あの沙耶が一瞬見せた眼。唯の見間違いか。だが確かに一瞬だけ丸いはずの瞳が縦に長く伸び、まるで昼間の猫の様だった。

 恐ろしかった。瞬きをするほんの一瞬だった。その瞬間、彼女は本当に魔女の様だった。

 終業式の日に最初に話しかけてきた時の沙耶と、今日の彼女とはまるで別人だった。この数日で生まれ変わったように自信に充ち溢れていた。

 存在こそ半信半疑だが、それが本当にヴァンパイアの力だとしたら……。

 欲しい。

 竹本の生きる目的がここで新たに生まれた。

 ヴァンパイアになる――――――人生を見失っていた竹本にはまさに救いの女神だった。

 そこで二つ目の約束が課題になってくる。

 狩りの練習?

 竹本のヴァンパイアのイメージは美女の生き血を吸う、黒いマントの吸血鬼だ。夜な夜な棺の中から出てきて蝙蝠に変身する。十字架と太陽の光を嫌う、それがヴァンパイアだ。

 ヴァンパイアについてはもっと詳しく聞く必要があるし、狩りの練習など気の小さい自分にできるはずもない。人を襲うなんて犯罪行為は危険すぎるし、警察に捕まりでもしたらそれこそ人生は終わってしまう。

 その日から数日間の間、竹本は仕事も手につかず、ひたすら悩み続けた。

 一日でも早く力が、力が欲しい。


 沙耶とのドライブから一週間後、何の音沙汰も無かった沙耶から連絡が来た。

 竹本は自分から連絡したかったのだが、二つ目の約束である『狩り』をする事だけは踏ん切りがつかないままだった。

 沙耶は竹本に来週までに狩りの練習をするように指示して来た。ご丁寧に場所まで指定してきたのだ。江津湖なら人も少なく狩りがしやすいだろう、沙耶はそう言うのだ。

 なぜだか分からないが、電話口の沙耶はどこか焦っている様子だった。

 狩りといっても何をすればいいのかさっぱり分からない。竹本は練習の前にもう一度沙耶と会う約束を取りつけたがったが、沙耶はそれを拒否した。

 電話での態度がこれまでと明らかに違うことが疑問だったが、機嫌を損ねて約束が反故にされる事を恐れて深くは追求しなかった。二十以上も年の離れた相手にも強く出れない、小さな男なのである。

 次の日、竹本はいつもの生物準備室に一日中籠もり、狩りのシュミレーションを何度も繰り返した。

 竹本の知るヴァンパイア、ここでの情報はあくまでも映画からなのだが、彼らはみな鋭い犬歯を持っていて首筋から生き血をすする。

 そんな真似を竹本が出来るはずもない。

 とにかく血を吸う傷を作ればいい。ほんの小さな傷。あまり大きすぎると事が大事になってしまう。相手には悪いが通りすがりに少しだけ、切り傷程度を。

 ただの練習なんだ、練習したという事実さえあれば文句あるまい。竹本はそう考えた。

「早い方がいい。明日、いや下見をしておいた方がいいまもしれない。明後日だ」

 日も傾きかけた頃、竹本は学校を出て沙耶の指定した江津湖へと向かった。そして彼なりに良さそうな場所を見つけ、その場所を明日の狩場と決めた。

 夜は眠れなかった。明日、自分は犯罪を犯そうとしている。そう考えただけで体が震え、胃液が逆流するようだった。

「力を手に入れるためだ。これくらい、これくらいの事……」

 そう自分に言い聞かせ続け、とうとう朝日は上った。


 その日、竹本は朝から少しの時間顔を出しただけで昼前には学校を後にした。

 近所の公園にある公衆トイレで季節外れの黒いトレーナーに着替え、帽子を目深にかぶった。

 さらにズボンのポケットにはハンドタオルを忍ばせた。そして車に戻り、今度は瞬間接着剤と以前、生物室で拾った長く鋭い付け爪を取り出し、それを右手の親指にしっかりと張り付けた。

 生徒が落としていいたであろう付け爪がまさかこんな所で役に立つとは思いもしなかった。

 準備は出来た。竹本は近くにあるパチンコ屋の駐車場へ行き、車の中でじっと時が経つのを待ち続けた。

 昨夜同様、何度もシュミレーションを繰り返す。何度も何度も……。

 竹本はいつの間にか眠ってしまっていた。昨晩の睡眠不足が祟ったらしい。

 時計を見ると六時を過ぎていた。行動に移すにはまだ早い。

 気持ちを落ち着かせるように竹本はコンビニでおにぎりと水を購入した後、ようやく江津湖へと車を走らせた。万が一の事を考え車は江津湖内の駐車場ではなく、近くのスーパーに停めた。

 陽も暮れてあたりは暗くなってきた。とにかく時間の流れがゆっくりと感じた一日だった。やっとその時が近づいてきたのである


 竹本は夜の湖に身を潜めた。

 今日だけ、今夜のこの一回きりでいい。この一回の練習で認めてもらい力を手にするのだ。緊張で足が震える。

 獲物は誰にするか。それが問題だった。

 自分より体が大きく、強そうな者はいけない。できれば女か子供。広い江津湖の中でもここを選んだのも、人気が特に少ないのもあるが、この先に学習塾があるのだ。塾帰りの子供を襲う、それが竹本の狙いだった。

 木々の茂みにしゃがみ、時々寄って来る小さな虫を振り払いながら竹本は獲物を待った。

 目の前を何人か通って行ったが、竹本の基準に満たなかった。というより気が小さい性格がここに来て出てきたのか一歩が出ない。体が動かないのだ。

「次だ。次に来た者が獲物だ」

 竹本は覚悟を決めた。

 ちょうど向こうからライトを点けた自転車がやって来る。

 竹本は顔を下げたまま自転車に向かって歩き出した。ポケットの中の手はタオルを握りしめている。

 自転車に乗っているのは中学生くらいの男の子だった。自転車と竹本がすれ違う、その瞬間―――。

 竹本は後ろから少年の口にタオルを押し当て、体を抱えあげた。ガシャンと派手な音を立てて倒れた。

 次に、暴れる少年の腕に付け爪を突き立てる。竹本は自分でも驚くほど冷静だった。さっきまで足が震えていたのが嘘のように呼吸一つも乱れていない。

 さらに竹本は爪を差した個所に噛みついた。

 これだ、練習とはいえ百点じゃないか! 

 ほんの一瞬の出来事だったが、竹本にはとてもゆっくり、そこだけ時間が止まったような感覚だった。

 暴れる少年から離れ、竹本は無我夢中に走った。どこをどう走ったか覚えてもいない。まわりも全く視界に入っていない。ただただ黒い闇の中を走っているだけだ。後ろから「待て」という声が聞こえたが待てるはずも無い。

 どれくらいの距離を走っただろうか。竹本は足を止めた。

 はぁはぁと呼吸が荒れている。気付けばさっきの場所から一キロ以上は離れていた。

 人を襲った罪悪感よりもまるでマラソンを走り終えたような満足感、充実感が竹本にはあった。

「これで力が手に入るのだ」

 沙耶に言われた通り危険を冒して実践練習をしたのだ。力を手に入れた後の事を考えると楽しみで仕方無かった。すでに今自分がやってしまった事などすっかりどこかへ行ってしまっているのだ。 

 竹本は心の底から笑った。恐いものは無くなった、そんな気がしたのだった。



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