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夕餉(ゆうげ)の支度/2

 竹本は慌てて立ち上がり、沙耶に背を向け涙を拭いた。こんな自分でも教師の威厳がある。生徒の前で涙を見せたくなかったのだ。

「まだホームルームの時間じゃないのか? 君は確かA組の―――」

 差し出されたハンカチは受け取りもせず、竹本は気丈に振舞った。

「大久保さんだったかな」

 生徒の顔と名前などろくに覚えていない竹本はなぜかこの沙耶の名前は覚えていた。

「なぜこんな所に?」

 あの不良たちにされていた無様な姿をこの生徒にも見られたのかと思うと、さっさとこの場を去ってしまいたかった。

「あの……偶然通りかかったら大きな声が聞こえて、それで……」

 下を向いてもじもじしながら話すこの女生徒をなぜ覚えているのか、竹本は考えた。長い黒髪にきちんと着こなした制服、一見すると地味でどこにでもいる普通の生徒をなぜ竹本の脳は記憶していたのか……。

 孤独。

 そうだ、彼女は自分と同じ種類の人間なのだ。竹本は気付いた。

 自分と同じように孤独を彼女から感じ取ったから自然と竹本の脳に印象強く残っていたのだ。

 A組の中でもひとりぽつんといる、誰かと談笑している様子も見た事が無い。

 彼女も孤独なのだ、竹本はそこに親近感を覚えていた。

「先生、力が欲しくないですか?」

「力……?」

 竹本にはその意味が分からなかった。

 そして沙耶はその大人しそうな顔が一変し、竹本へ不気味な微笑みを見せこう言った。

「あの人たちを仕返しができる力です」

「仕返し? 何を言ってるんだ。教師が生徒に対して仕返しなんか―――」

「正直に。あいつらが憎いでしょ? 分かります、先生。私もそうだったから……」

 竹本は固まった。沙耶のその瞳は優しくもあり、魅惑的だった。だがその奥にある何とも表現しがたい、どす黒い物を感じたのだ。

「もし本当にそれが欲しいなら連絡ください」

 そう言って連絡先を書き残し、沙耶は部屋から姿を消した。


 竹本がすぐに沙耶に連絡したのは言うまでもない。

 すでに精神的に限界だった竹本にとって、沙耶の意味深な言葉は闇に差し込んだ一筋の光だった。

 二人は待ち合わせの場所を決め、竹本の車で目的地の無いドライブへと出かけた。

 女性―――この場合そう呼んでいいものか分からないが―――女性を助手席に乗せるなんていつ以来だろうか。教師と生徒という関係上、越えてはならない一線がある事は十分分かっていた。

 もちろん竹本はやましい気持ちなど微塵も持ち合わせていなかったが、もし学校にこの事がバレでもしたら騒ぎになるのは明らかだ。

 教師の職も追われるかもしれない。そうなれば学校の連中は厄介払いできたと大喜びだろう。

 だがそうはいかない。辞める時は不良たちをはじめ、自分を馬鹿にした連中に復讐してからでないと意味がない。

 そう考えた竹本は道の途中、沙耶を後部座席に移動させた。

「先生も用心深いのね」

 竹本のすぐ後ろで沙耶がクスクスと笑った。

「も、もしもの事があるからね。二人でいる所を見られたら君もまずいだろう」

「別に私は構わないわ。陰口されるのは慣れてるの」

 バックミラーに映る彼女の顔は少し淋しげに見えた。その表情に竹本の胸が疼く。その感情を抑えるかのように竹本は彼女から視線を外した。

 彼女はあくまでも生徒だ。妙な気を起こしてはいけない。力を、何の力なのか今は分らないが、力を手に入れるために彼女といるだけだ。

 竹本は頭の中でそう繰り返した。

 車はひたすら目的もなく走り続けた。ハンドルを握る竹本は気の向くまま右へ左へとハンドルをきった。

「先生、ヒトを辞める覚悟はある?」

 後部座席の沙耶が突然切り出した。

「人? 人間をやめる?」

 何を言ってるんだ、竹本は顔をしかめた。力をくれる話を聞くはずだったのに人をやめるとはどういう意味だ。

「人間じゃなくてヒトよ。ヒ・ト」

「人間と人とどう違うんだ。同じじゃないか」

「そうじゃないんだなあ」

 そう言って沙耶はゴロンと後部座席に横になった。ミラー越しに目が合う。その目はまるで竹本を誘惑するかの如く、悩ましく妖艶だった。細く伸びた白い足が竹本の視界に飛び込んだ。慌てて視線を前方へと戻す。

「ヴァンパイアって知ってます?」

 思わず竹本は噴き出した。仮にも生物教師にむかってヴァンパイアなどとおとぎ話を持ち出したからだ。

(所詮子供か。期待した俺が馬鹿だった)

 竹本は絶望した。自分はこの女子生徒にいい様にからかわれているのだ。彼女も自分をいじめてきたあの連中となんら変わらないのだ。

「大久保さん、そんな話をするためにわざわざ僕と一緒にいるのかい? 僕は生物の教師だよ。そんな物いるわけないじゃないか」

 帰ろう、竹本は車の目的地を沙耶を乗せた場所へ進路をとった。

「力が欲しいんでしょ? 先生も一緒に進化しよ」

「進化だって? 人が進化したらヴァンパイアになる? そんな話聞いた事もない」

 竹本は苛立った。力はおろかこんな馬鹿げた話に付き合ってられない。

「私だって最近知ったのよ。彼らは正体を隠して生きてるの。普通のヒトと同じように。あの人は教えてくれた。そして見せてくれたの」

「見せてくれた? 何を?」

「血を飲む所よ。本当に飲んでたわ。あれは間違いなく血だった」

 竹本は車を乱暴に路肩へ寄せた。

「君は何を言ってるんだ。血を飲む? それだけでヴァンパイアだと何で分かるんだ?」

 竹本がこんなに声を荒げたのはいつ以来だろうか。それだけ彼は力を欲していたのだ。運転席から後部座席に身を乗り出し、横になったままの沙耶に詰めよった。

 沙耶はゆっくりと身を起こし顔を竹本に近づけた。その妖しく艶めかしい目に竹本は一瞬たじろいだ。

「だって私もヴァンパイアだから……」

 そう言った沙耶の目は一瞬、ほんの一瞬だが人間のそれとは思えない、見た事もない姿へと変わった。

 驚いた竹本は思わず体をハンドルへ押し当ててしまい、けたたましいクラクションの音を鳴らしてしまった。

「先生が望むなら私からあの人へ頼んであげる」

 大人しく思えた女子生徒の姿はもうそこにはなく、竹本には沙耶のその姿がまるで魔女の様に見えていた。




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