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夕餉(ゆうげ)の支度

 竹本は荒くなった呼吸を落ちつけ、広い額に噴きだす汗をシャツで拭った。

 この生意気な忌々しい小娘の命令を聞くのももう少しの辛抱だ、そう自分に言い聞かせながら、竹本は意識を失っている馬原啓介の体を背負っていた。

 暗い廊下の先をハイキングにでも来ているかのように、軽い足取りで進む大久保沙耶の背中に追いつくように必死で足を出す。

 非力な竹本には、高校生といっても体格は大人に近い啓介の体重はズシリとくる。人の完全に脱力した体はこんなにも重いものなのかと痛感した。

 目的の教室までもう少し。もう少しで生物室へとたどり着く。

 坪井高校のこの棟の二階には西から化学室、化学準備室、生物室、生物準備室と並んでいる。

 どちらも準備室とは名ばかりで、普通の教室の様に広さもなく、要は物置みたいなものである。理科系の教師用の理科教官室もこのフロアにあるのだが、竹本はもっぱらこの物置に閉じこもっているのである。

 沙耶の言う「あなたの部屋」というのは生物室の事だった。

 なぜわざわざ生物室を使うのか、無人の教室は今なら山ほどある。なんなら校長室でも職員室でも使い放題だ。

 だが沙耶が選択したのは生物室なのだ。

 もしここで何かあれば自分に責任の矛先がむきはしないか、気の小さい竹本はそれが気がかりだった。

 他の教師連中は宴会。自分はそこにいないのだから学校で何をしてたんだという話になりかねない。そんな教室を使うのは断固として拒否したい。

 拒否したいが、今はこの女に従うしかないのだ。

『アレ』を手にするまでは……。


 必死に荷物を運ぶ竹本をよそに、沙耶はさっさと生物室のドアを開け、中に入って行ってしまった。

 教室に入る際、竹本を横目でチラリと見た沙耶の目つきは、さっさとしろと言わんばかりだった。

 ようやくたどり着いた竹本を沙耶は机の上に座って足をブラブラさせていた。

「ご苦労さま。さあ、次は机よ」

 床に啓介をゆっくりと降ろしながら竹本は沙耶に聞き返した。

「机?」

「そ。そんな床に置かれた物を食べろって? 冗談じゃないわ。私にとって記念すべき最初の食事よ。本当ならテーブルクロスでも欲しいくらいだわ」

「じゃあどうすりゃいいんだ?」

 竹本は内心呆れていた。こんな時に呑気なもんだ。さっさと済ませてここから早く立ち去りたいのが竹本の本音である。

「机を並べて、その上にそいつを置いてちょうだい」

 沙耶は顎で竹本を促した。

 竹本の方も黙って、邪魔な机をよそによけ、六台の机を綺麗に並べてその上に啓介の体を寝かせた。

 食卓の準備を音を立てないに進めていると、竹本は沙耶がいない事に気付いた。

「あの小娘、どこ行きやがった?」

 辺りをキョロキョロ見回すがその姿は無い。

「まさか、あいつ俺を嵌めやがったのか」

 焦りと不安で一気に汗が噴き出す。

(もともとあいつらは俺に『アレ』を渡す気などなかったのか……)

 そうあたふたしていると、ガラリと教室のドアが開き、何かを抱えた沙耶が涼しい顔で入ってきた。

「ど、どこ行ってたんだ」

「どうしたのよ、そんな怒った顔して。どこにも行きはしないわよ」

「何持ってんだ」

 竹本は沙耶が抱えている物を指差した。

「あんまり暗いと雰囲気でないでしょ。明かりを点けるわけにもいかないし」

 そう言うと沙耶は教室の適当な場所にそれを所々置いて火を点けた。隣の化学室からアルコールランプを四つほど持ち出してきたのである。

「ほら、何か中世のお城みたいな雰囲気でしょ」

 沙耶は子供の様にはしゃいでいる。さっきは舞台女優、今度はお姫様にでもなった気分なのだろう。

 竹本は早くこの小娘との関わりを断ちたくて仕方なかった。『アレ』を手に入れるまでの我慢もそろそろ限界に近付いていた。



 大久保沙耶が最初に竹本に接触してきたのは夏休みに入る直前、一学期最後の登校日だった。

 終業式も終わり、各クラスが一学期最後のホームルームをしている時間帯、担当のクラスを持たない竹本はいつものように生物準備室に籠り、グラスについだ冷たい麦茶を飲んでゆっくりしていた。

 職員室も理科系職員用の理科教官室も、居心地の良さはこの部屋と雲泥の差なのだ。ここでの一人の時間だけが仕事中唯一くつろげる空間だった。

 だが、そんな至福の時も、またいつもの様にあの連中に邪魔された。ホームルームを抜け出してきた三年の不良三人が押し掛けてきたのだ。竹本は知らん顔をして彼らから顔を逸らした。

「竹本ぉ、お茶」

 生徒たちから陰で番長と呼ばれている大山がドカッと椅子に腰を下ろし竹本に命令した。隣にいる二人も竹本を見てにやにや笑っている。

 この不良連中のさぼり場所の一つがこの生物準備室だった。竹本が抵抗しない、いや抵抗できないのをいいことにここへ来ては竹本をからかって楽しんでいた。 

 青ざめた竹本は自分の飲みかけのグラスの中身を捨て、麦茶を注ぎそれを大山に差し出した。

「ぬるいんだよ」

 大山は一口飲むなり、グラスのお茶を竹本めがけて浴びせかけた。

 当然竹本の顔から胸にかけてぐっしょりと濡れた。何も言い返さず、ただ黙って下を向いたままピクリともしない。ただただ、背中を丸め、体を小さくしてその暴挙が時間と共に過ぎ去って行くのを待つかのようだった。

 それを見て不良三人は大笑いし、「夏休み会えないのが淋しいよ」と心にもない台詞を吐き捨てて、さっさと部屋から出て行った。

 残された竹本はタオルを取り出し、もくもくと濡れた体と床に散ったお茶を拭き取る。

(一体あいつらは何がしたいんだ? こんな事をして何になるんだ? そんなに楽しい事なのか?)

 この学校に五年前に赴任して、もっと言えば教師になってから間もなくして、生徒に馬鹿にされ、悪質ないじめを受け、さらにはそれを同じ仕事仲間であるはずの教師仲間からも見て見ぬふりをされてきた。

 教頭からは生徒に対する姿勢が悪いのだと罵倒された。

 (俺が悪い? 俺が何をした? お前らに―――生徒や他の教師連中に、一体何をしたんだ?)

 竹本はひたすら耐えるだけの孤独な生活を送ってきた。

 昔からそうだった。中学生の頃から、何かと因縁をつけられてはいじめられた。弄ばれた。

 もちろん悔しかったし、仕返しをしてやりたかった。抵抗したかった。

 だが、少しでも反抗的な素振りを見せればこれまでの倍以上の仕打ちが待っていた。竹本少年は抵抗はおろか、反応する事さえも放棄したのだ。

 教師という職業を選んだのもそういう生徒、自分の様に弱い生徒を守りたい、助けたい思いからだった。

 (こんなにつらい思いするのは自分だけでたくさんだ)

 蔑まされてきた竹内の中の正義感は死んでなかった。つらい経験をした者だけが分かるであろう、生徒の心の闇を振り払ってやりたかった。

 それがいつの間にか、なぜそうなったのか分からないがいつの間にか生徒からもいじめられる教師になってしまっていた。

 竹本は絶望した。

 (俺はどこへ行ってもこうやって馬鹿にされてきた。俺の人生はこんなものか。この運命からはどうやっても逃れられないのか。一体何のためにこの世に存在しているのか……)

 どこからか溢れ出した涙が床に落ち、こぼれたお茶と混じった。

 限界だった。教師になって二十数年、ずっと苦しんできた。それどころか十代からずっとだ。

 もう十分苦しんだろう、俺がこの世からいなくなればあいつらは少しくらい責任を感じて苦しむだろうか。俺が死ねば……。

「先生、大丈夫?」

 床に手と膝をつき、四つん這いの格好で涙をこぼす竹本に背後から何者かが声を掛けてきた。 

 ハッと我に帰り顔を上げ、振り返ったそこにはハンカチを差し出した女生徒が心配そうにこちらを見ていた。

 大久保沙耶だった。



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