潜入/5
青木の覗いた窓から最初に見えたのは乱雑に並べられた机の列だった。教室の机というのはきちんと等間隔に並べられているイメージだったが、ここはそうではない。何か邪魔になる机を外側に押しのけた様な感じだった。
そして適当に置かれた机の上に小さな炎がゆらゆらと揺らめいている。よく観察してみるとそれはアルコールランプだった。教室の所々に火の点いたアルコールランプが置かれていた。青木が気付いだ揺れる光の正体はこれだったのだ。
中にいる人物も照明を点けるのはまずいと思っているのだろう。
という事は中で良い事をしているのではないな、青木はそう考えた。
不安定な炎の光に照らされた二つの影は向かい合ったまま何か話をしている様だ。
青木の位置から手前に一人、そしてその手前の人物に重なるようにして奥にもう一人。
(あの後ろ姿……女か?)
手前の人物を良く見ると長い黒髪に、スカートから伸びる細い足。後ろ姿とその服装からどうやら若い女の様だ。
その女と丁度重なっているためちらちらとしか見えないが、奥の人物は男だ。男の方は薄い頭髪に中肉中背、青木よりも年は上に見えた。
声こそ聞き取れないが、二人のやり取りを見ているとどうも女の方が男よりも立場が上の様に見えた。誰もいない夜の学校に中年の男と若い女、教師と女生徒の禁断の密会。褒められた事ではないが、良くあるパターンかと青木も初めのうちは考えたが、どうも違うようだ。青木の目には男がどこか怯えていて、女の言う事に嫌々従っている様に映ったのだ。
女と男の間には二、三メートル程距離があった。もし二人が恋中なら密着こそしなくてももう少し近づいていてもいいはずだ。
(痴情のもつれか?)
痴話喧嘩になって女に怒られている男という設定を想像した。
もし二人の関係が恋人同士で、学校に忍び込んで事を始めようとするのなら、そんな覗き趣味のない青木はさっさとその場を立ち去っただろう。
こちらに背を向けた女が位置を移動した時に青木の目に飛び込んできた物が、青木をその場に足止めした。
これまで青木の位置からドアを背にした女と、黒板を背に女の方を向いた男は一直線上になっていた。そこで女が横に移動した事で、今まで見えなかった男と女の直線上にあった物が姿を現したのだ。
(あれは……人間の足?)
驚いた青木は慌てて口を押さえた。女の陰から突然現れた人間の足に思わず声が出そうになったのだ。
生きているのか、それとも死んでいるのか分らないが、丁寧に並べられた机の上に人間の形をした物が横になっている。
踏み込むか、青木はそう考えたが、思い留まった。まだ早い。あいつらがこれから何をするのか、それとももうすでに済んでしまったのか分らないが、もう少し観察する必要があると青木は判断した。
もしも横になっている人間に危害を加える様な素振りを見せればすぐにでも飛び込める様に構えてはいるが、不安は拭えない。
ここに来て瓜生の言った通り銃を携帯しなかった事を青木は後悔した。相手は二人いる。丸腰で飛び込んでも二人同時に動きを抑止するのは厳しい。
それにしても―――
わざわざ学校に侵入して何をするつもりだろう。ご丁寧に机まで並べて男を寝かせ、まるで何かの儀式をするかのようだ。青木には揺らめく炎に照らされた女の顔が魔女の様にも見えた。
魔女―――?
青木の胸の鼓動のスピードが緊張で早く波打ち始めた。
(まさかあの二人、ここで食事をするつもりか?)
逢引きや男女の痴話喧嘩なはずがないのだ。瓜生が学校に向かえと言った。答えは一つしかない。
青木の体中の毛穴が開き、頬に汗がつたう。
(ヴァンパイアか!)
青木の中でそう結論が出たが、そうなるとさらのどう動くか、判断が難しくなる。
昼間は相手がヴァンパイアなど想像もしていなかったので、実際ヴァンパイアと相対するのは初めての事だ。
瓜生は「どう動くかはあなたに任せる」と言った。俺はどう動く? あの二人をどう止める?
青木は教室の中を見ながら自問自答を繰り返した。
魔女は今にも踊りださんばかりに体を揺らしている。まるでおやつを前にした子供の様だ。その魔女を恐れるように背中を丸め、その様子をただ黙って見つめる中年の男。
(行くか……)
そう腹を決め、ドアに手を掛けようとした時、青木の脳裏に、その青木本人でさえも恐ろしい考えが一瞬よぎった。
どうやって―――
青木は慌てて体をドアから離し、頭を振った。激しさを増した鼓動を落ち着けるために深呼吸を繰り返す。何度も、何度も……。
青木は自分自身を叱責した。
(何を考えてやがる、なんて事を考えてんだこの俺は……)
一瞬。ほんの一瞬だが青木は好奇心を持ってしまったのだ。刑事として、ヒトとしてそれは持ってはいけない好奇心を。
『ヴァンパイアがヒトの血を吸う瞬間』
青木はこれを見てみたい。いや、確認したいという方が正しいのかもしれない。
ヴァンパイアという存在を知ってしまった以上、そこに興味を示す事は仕方ないのかもしれない。だが、青木の中の正義感が一瞬でもそう考えた事を許さず、そして恥じた。
(犯罪を未然に防ぐのがてめぇの仕事だろうが)
そう自分を戒めて、再びドアの前に立つ。
とにかく止める事が先決だ、青木はそう決めて教室に飛び込む覚悟を決めた。
と、同時に間抜けな携帯電話の着信音が校内の静寂を打ち消した。
飛び上がるほど驚いたのは青木だ。彼の携帯電話が静けさの中、余計に大きく響き渡ったのだ。
(しまった!)
刑事にあるまじきミスである。枕崎に腹を立て、さらに校内にいる誰かに気がいってしまい携帯電話の着信を消しておく事を忘れてしまっていたのだ。
だが、そんな事は言い訳にならない。始末書どころの騒ぎではない凡ミスである。
急いで取りだした電話の相手はよりによって木下だった。病院で目を覚まし、青木に状況でも聞くつもりだったのだろう。
青木は電源を切って電話を放り投げた。カシャンという音とともに携帯電話は暗い廊下を滑って行った。
(あの馬鹿野郎。もっと寝てろ)
自分のミスを棚に上げて木下のせいにするのだから始末が悪い。間が悪い木下も木下だが、いいとばっちりである。
こうなりゃ仕方ない、青木は勢いに任せてドアを開け、教室に飛び込んだ。
「警察だ! 二人とも動くな」
三人は教室で相対した。
ドアを開けた時の風圧でアルコールランプの炎がひとつ、その揺らめきを消した。




