潜入/4
校舎に一歩足を踏み入れると、その学校の持つ独特の匂いが青いの鼻孔をくすぐった。
「こりゃまた不気味なもんだ」
外とはまた違った校舎内の薄暗い雰囲気に青木はため息をついた。
しかし長い事暗闇にいるせいか、最初に学校の門を乗り越えた頃と比べれば恐怖心は和らいでいた。
遊園地の絶叫マシンと一緒で一度慣れてしまえば、どんな苦手な状況でも多少は平気になってしまうものなのである。
緊急事態だ、勘弁なと靴を履いたまま校内へ足を踏み入れた。
校舎に入るなんて何年振りだろうか。別にここは自分が卒業した学校でもないのに、青木は静かに廊下を歩きながら高校時代の思い出などを振り返っていた。
憎たらしい生徒指導部の教師、上級生の不良グループとのいざこざ、結局その想いを伝える事の出来なかった同じクラスの女子生徒。青木らしくないノスタルジックな心境になっていた。
高校時代の青木は不良だったかといえば不良だったのかもしれない。しかし誰とつるむわけでもなくただ一人で突っ張ってるような生徒だった。その強面な外見で、いつも仏頂面しているせいで入学早々上級生には目をつけられていた。
自分から喧嘩を吹っ掛けるわけでもないし、青木本人も周りに威圧的な態度を意図的に取ってるわけでもない。自分なりに普通の学校生活を送っているだけだった。
だが、一匹狼を気取る青木が気に食わなかったのだろう。ある日、上級生の不良グループが青木を呼び出した。
青木も無駄な喧嘩は売らないが、売られた喧嘩は買うタイプである。
何の迷惑もかけてない、それこそ会話すらした事のない上級生にいらぬ因縁を吹っ掛けられたのだ、黙ってやられるわけにもいかない。
相手は六人だった。
まず一人、最初に青木に近づいて生意気だ何だと、挑発してきた相手をあっという間に片づけた。
驚いたのは上級生の方である。六人相手に青木は怯むことなく手を出してきた。次に胸倉を掴んできた相手の顔面を殴りつける。
だがあとは多勢に無勢、中学校上がりの子供が四人相手に敵うはずもなかった。
翌日、顔を腫らして登校してきた青木に生徒指導部の教師が目をつけて、色々と問いただしてきたが青木は一切何も答えなかった。
それ以降、上級生とのトラブルは一切なかった。上級生側もまさか青木が抵抗して二人もやられるとは思わなかったのだろう。あいつは危ないと噂が不良グループの間で広がったのだ。
そんな噂のせいもあってか、女子生徒にはモテた記憶がない。その代り、不器用で無愛想だが友達は多かった。
後輩に対して威張るわけでもなく、決して周りに流されない自分というものを持っている、そんな高校生だった。
そんな青木に警察官の道を進めたのが当時の担任の教師だった。本人はそんなもの自分には合わないと頑なに嫌がったが、ついにその説得に折れた青木は合格するわけがないと、渋々試験を受けた結果、警察官となったのだ。
当時の担任は青木の内に秘めた強い正義感を見抜いていたのかもしれない。
階段を上がると思い出に浸っていた青木の表情はガラリと変わった。
坪井高校は二棟の校舎が並びそれをつないでいる校舎という構造になっていてコの字型をしている。向かい合う校舎の反対側の三階、青木のいる位置のちょうど反対側の窓からわずかにあかりが見えた。
「見間違いじゃなかったな」
一瞬にして青木に緊張が走る。
直接明かりが見えるわけではなく、その教室だけがまわりの教室よりかすかに明るい。それは一定した明るさではなく、光と影が時折ゆらゆらと不規則に揺れていた。照明や懐中電灯の光ではなさそうだ。
向こうに見える校舎はここから見るに廊下を挟んで教室がある様なので、ここからは中の様子は分らない。教室から漏れる光に青木は気付いたのだ。
青木は腰を屈めた。
校舎内に青木以外の誰かがいるという可能性が大きくなったからには慎重に動かなければならない。勘づかれて逃げられでもしたら元も子もないし、実際昼間に犯人を逃したという事実がいつも以上に青木を用心深くさせていた。
辺りの様子を気にしながら静かに二階から三階へと上がる。
特に話声や物音もしない。ただ廊下に設置された冷水器が時々、ぶうーんと低い作動音をさせているだけだった。
階段を上がり終え、静かにその明かりのついた教室のある棟へ進む。
体中のあらゆる神経は緊張し、わずかな物音にでも体が反応する様に準備を怠らない。
呼吸は必要最低限の空気を取り込むだけで押し殺し、青木の首から背中にかけて一筋の汗がつたう。
そして緊張の糸を一度ほぐすかの様に首を左右に小さく振った。
あまり体が緊張しすぎると、いざという時の初動が遅れてしまう事を少年時代の喧嘩で青木は身をもって学習していた。
目標の教室までの距離はおよそ十メートル。青木の位置から三番目の教室である。
教室の中を観察するには、手前と奥にある二つのドアについた窓だけだ。その二つの正方形からほんのわずかに薄い光が漏れていた。
(さてどうするか……)
青木はズボンの後ろポケットに手を当て、警察手帳の厚みを確認した。
手ぶらで突入したのではただの校内に不法侵入した男にすぎない、警察手帳を見せれば相手の目的が何であれ、一瞬の隙を見せるはずだ。
(瓜生の言うとおり銃を持ってくるべきだったか)
そう後悔したがもう遅い。
青木は教室の手前のドアの窓の下まで来て静かに腰を下ろし、ふぅっと静かに一息ついた。
ドアに背を向け、張り着くようにして中の音に耳を澄ます。
……するん……だ……
会話の内容は分らないが、誰かがいる事は確かなようだ。
教室内の人間も声を押し殺している。
(独り言か? いや、最低でも二人か)
青木は腰を浮かし、ゆっくり、ゆっくり小さな窓から薄暗い教室へと目を凝らした。
その目に飛び込んだのは教室内に立つ、二つの影だった。




