準備
「言われた通りやったぞ」
暗闇で男が囁く。
うす暗い、机が並べられたその部屋には二人、正確には三人の影があった。
中肉中背の男の足元にはもう一人、気を失った男が倒れていた。
「御苦労さま。タイミングばっちりだったわ」
暗闇で女は男に微笑んだ。
男はかすかに届く外の光でおぼろげにその表情を見てとれた。
「それで? こいつをどうするんだ」
男はどこか怯えたような声を出した。現に男の足は小刻みに震えている。
それはたった今自分がしてしまった事と、これからしようとする事の重大さ、罪深さを物語っている様だった。
それを察した女は小馬鹿にした様に男を眺めている。
「震えてるの? もう後戻りはできないのよ、あなたも私も。それにあなたも望んだことでしょう」
女の鋭い目つきに男は怯んだ。
「わ、分かってる。大丈夫だ。ちゃんとそっちも約束は守ってくれるんだろうな。そうじゃないと―――」
「ふふふ。大丈夫よ。あなたも私も随分焦らされたんだもの。十分我慢したわ。今日は二人が新しく生まれ変わる日よ」
女はまるで舞台で万雷の拍手を浴びるヒロインの様な仕草で、大げさに両手を広げた。
この世に何も怖いものは無いという風な、若さの溢れ出る姿を唯一の観客である男は黙って見つめていた。
「どこでやるんだ」
「聞いてないの?」
「何も」
「あなたの部屋よ」
「え?」
「何度も言わせないで。あなたの部屋」
「冗談はよせ。そこまでしたら私はここにいられなくなる」
両手を広げたままヒロインを気取る女に男は詰め寄った。少し薄くなった男の額には大粒の汗が噴き出している。
「何言ってるの、今さら。あなたも私も明日にはここから消えるの。だからそんなもの関係ないわ」
呆れた表情で女は両手をストンと落とした。その女の怪訝な表情はまるで汚らしい野良犬を見る様な蔑んだ、冷たい目つきだった。
冷酷な視線に恐ろしさを感じた男は冷静さを失いつつあった。
「どういう事だ。そんな事聞いてないぞ。これからも普通の生活ができるって話だったはずだ。現にあいつも―――」
「あなたにはまだ覚悟が足りないわ」
うろたえる男を女は冷たく遮った。
「あの人とあなたを一緒に考える事自体間違ってるのよ。私だってそう。あの人の様に上手く生きられない。だから皆でこの土地を去るの。あの人だって動く必要ないのに私と一緒だから、そう言ってくれたわ」
そう語る女の表情はさっきまでの冷たい表情から恋する乙女の様に穏やかに、目まぐるしく変わる。
「あなたはあの人から恩恵を受けるんだから黙って言われた通りにすればいいの。ここから去ってしまえばあとはあなたの好きにしたらいい。私達の邪魔されたらたまったもんじゃないわ」
男は何も言い返せない。女は構わず続ける。
「仕返ししたい連中がたくさんいるんでしょ? あなたを馬鹿にした連中が。ここにいたらそれは叶わないわ。あなたみたいな愚鈍な人はすぐに正体がばれてしまうでしょ。そんな事になったらあの人にも迷惑がかかってしまうわ。だから一旦、ここから姿を消してそれから復讐でもなんでもすればいい。分かった?」
子供をなだめるかのような女の言葉を男はうつむき気味に黙って聞いていた。
言い返そうにも言葉が出ない。
年は男の方が上だが、立場はこの女よりもはるかに下にある様だ。
「分かったんなら行きましょ。グズグズしてる時間はないわ」
女は足早にその部屋から出て行こうとした。
「ちょっと待て。一人で運ぶのか?」
すでに部屋から体半分が出ていた女は振り返り、呆れかえった。
「あんた男でしょ? それくらいの物一人で運べないの? ほんとあなたはダメな男なのね」
そう言い残して女はさっさと行ってしまった。
残された男は女に対しての怒りを抑え、打ち震えていた。
「あの餓鬼、好き放題言いやがって……。お前もリストに入れといてやるから覚悟しておけよ……大久保沙耶」
男はズボンのポケットから小さなメモ帳とペンを取り出し、女の名前を何度もうわ言のように唱えた。さっきまでの怯えた表情は消え、男は狂気に満ちた表情でメモ帳にペンを走らせなにやら書きなぐった。
「それともうひとつ……」
行ってしまったと思った女がひょいと部屋の入り口から突然顔を覗かせた。
驚いた男は急いでメモ帳をしまおうとしたが、慌てたせいでポケットに入りきらずにぽとりと足元に落としてしまった。
「なあにそれ」
女は当然その物体に興味を示した。
「いや、なんでもないよ。授業の準備に必要な物を忘れない様に書いてるんだよ。それで? もうひとつってなんだ」
女は怪しそうにポケットのそれを窺っていたが、男は話を逸らして交わす。
「ふうん。まあ、いいわ。言い忘れてたけど移動しても明かりは点けないでね。目立って誰かに来られてもいけないし。あなたそういうとこに気が回りそうにないから」
人を馬鹿にするようなことをわざわざ戻って言いに来たのかと、男は顔を曇らせたが、
「分ったよ。まあ今日は何かの飲み会で教師全員出払ってるから当分は戻ってこないと思うがね」
そう言ってわずかばかり女に反抗してみせた。
「あ、そう。じゃあいいわ。でもあなたはその会に呼ばれないのね。かわいそうに」
人の神経を逆なでするのが上手い女である。そう言った女の表情は男に対する嫌悪感たっぷりだった。
「まあね。慣れたもんさ。それに今日はもっと大事なものがここにあるからね。そうだろう?」
男も必死に抵抗する。
「ふん、じゃあそういうことだから。私もうずうずしてるんだからさっさと動いてね。竹本先生」
黒い髪を掻き上げ、挑発的にそう言い残すと女は部屋から姿を消した。
「調子に乗るのも今のうちだぞ、大久保……」
竹本は怒りを押し殺し震える手を抑えた。そして足元に横たわる男に視線を落とすと、
「お前には恨みは無いんだが……悪く思うなよ、馬原」
そう呟いて、床の上に完全に脱力した男の上半身を非力な腕で抱え起こし、両足を引きずりながら女の後、を追った。
闇が包み込む静寂の中に竹本の荒い息遣いと、ズルズルと重い物を引きずる音だけが小さく響き渡った。




