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今夜、暗い学校で/4

「いい思い出がないって、寂しい事言うんだな」

 啓介は教室の入り口に立ったまま沙耶に話しかけた。沙耶の言葉の意味は啓介に理解できない。

 二人が高校に入学してまだわずか五カ月、啓介自身も思い出と言えるほどのものはまだない。やっと新しい生活に慣れてきたという所である。

「まだ入学して半年だぜ? 思い出なんかこれからだよ」

 これからと言いながら、沙耶がこの学校を去る事は充分承知していた。啓介のその言葉には「だから学校を辞めるなよ」という気持ちも含まれているが、沙耶がそれに気付いたかどうかは分からない。

「このままこの学校にいてもいい思い出なんてできなかったよ、多分」

 沙耶はまだ黒板を見つめたまま、啓介の方を見ない。

「どうしたんだ沙耶。何かあったのか?」

 啓介は沙耶に近づこうと、一歩教室に足を踏み入れたが思いとどまった。沙耶の雰囲気がさっきまでとは違って近寄りがたいのだ。

「ごめんね、啓ちゃん。せっかくの夜に。大丈夫だよ」

「どうしたんだよ、急に」

「あんまり楽しくなかったんだよね。高校来ても。新しい友達もできなかったし」

 言われてみれば、沙耶が学校で女生徒や男子生徒と仲良く話している場面を見た記憶がない。友達がいるかいないかなど、啓介は気にも留めていなかった。

 毎日、沙耶の姿を目で追っていながらそんな事にも気がつかないとは、自分は情けない。啓介は自分自身を責めた。

「友達、いなかったのか」

「うん。なんでだろうね。昔から友達作るの苦手だったから」

 思えば、小学校の頃はそうでもなかったが、中学時代から沙耶はいつも一人でいた。だからといって、友達の輪に入れてもらえないとか、いじめられてるといった印象はないのだが、言われてみれば啓介の見る沙耶は一人の事が多かった。

 もしそれが沙耶の悩みの一つだったのだとすれば、昔からの友人である自分が、沙耶の孤独に気付いてやれなかった事を啓介は深く後悔した。

 沙耶が孤独だったからこそ、啓介は夏休みの終わりに見た、竹本と一緒に歩く沙耶の笑顔に衝撃を受けたのかもしれない。

「ごめんな、僕がもっと話しかけてれば……」

 啓介はまた一歩、沙耶に近づいた。悲しげな顔の沙耶の近くにいてやりたかった。

「啓ちゃんに知られたくなかったのかも。一人でも大丈夫って強がってたのかなあ」

「僕に強がってどうするんだよ。昔から知ってる仲なのに」

「知ってるからだよ。啓ちゃんの事だから私を心配するかな、って」

「そりゃあ、心配するかもね。ずっと話もしてなかったけど」

 すると沙耶は椅子の背もたれに肘をかけて体を啓介の方へ向けた。

 教室の暗闇の中で沙耶の視線と啓介の視線が交わる。

 沙耶に近づこうとしていた啓介の体はまるで金縛りにあった様にその動きを止めた。

「啓ちゃん、私の事好きでしょ?」

 予想外の沙耶の言葉に啓介の頭はぐらついた。長年抱き続け、決して伝える事が出来なかった思いを沙耶に見透かされたのだ。

 その思わぬ一言を受け、恥ずかしさと戸惑いで、少しふらついた啓介は近くの机に手をかけ体を支えるのが精いっぱいだった。

「そうでしょ?」

 沙耶が追い打ちをかける。

 啓介はどう答えるべきか頭をフル回転させた。

 思いを伝えるチャンスを沙耶がくれた。いや、あの沙耶の言い方はなんだろう、どこか違和感がある。そう、何か自分を馬鹿にした様な言い方―――。

 啓介の鼓動は早くなり、沙耶の顔を見れないでいる。顔どころか、彼女の存在自体を視界に入れることすら視覚が拒絶しているようだった。

 そしてまたあの感覚―――渇く、喉が渇く。

「お前……沙耶は違うのか……?」

 啓介は声を振り絞った。そう聞き返すことが啓介の脳が出した答えだった。

「違う? 何が?」

 沙耶の声が静かな教室に弾んだ。さっきまでの淋しそうな声とは全く違う。

 それはまるで啓介を追い詰める様な声だった。

 啓介は手を掛けた机を凝視しながら沙耶に答えた。

「だ、だから沙耶は僕の事―――」

「違うよ」

 息をつく間もなく、冷たい声が啓介の耳を貫いた。

 恐る恐る顔を上げると、視線の先には肘をついて足を組んでこちらを見つめる沙耶がいた。すぐそこにいる沙耶は、さっきまでとはまるで別人だった。

「ち、違う?」

 沙耶の態度が急変し、啓介は混乱した。

 暗くてその表情ははっきり見えないが、沙耶が自分の事を嘲笑しているのだという事だけは分かった。

「違うよぉ、啓ちゃん。残念だけど」

「どうしたんだ沙耶。そんな急に……」

「あんまり期待させちゃ啓ちゃんに悪いと思って」

「期待? 僕に悪い? さっきのあれは一体なんのつもりで……」

 啓介の中にふつふつと怒りが沸いてきた。キスをし、体を抱きしめた、さっきのあの行為は何だったのか。期待するなという方が無理な話だ、啓介は憤る。

「あれ? ああ、キスの事? あんなの挨拶でしょ。そんな特別な事じゃないよ。啓ちゃんはうぶだなあ」

 その一言は啓介を絶望に追いやるには十分だった。

 啓介は両手を机につき、今にも倒れそうな体を必死に支えた。

 フラれるのはかまわない。どうせ思いを伝えることなど自分にはできないと思っていた。しかしこれは、この仕打ちはあまりにも酷過ぎる。啓介は今にもこぼれそうな涙をこらえた。

 それは悲しみの涙ではない、悔しさの涙だった。

 なぜ、沙耶が自分にこんな事をするのか、不思議でならなかった。そこにいる沙耶は自分の知る沙耶じゃない、そんな気すらしたのだ。

「そんな事言うために僕を呼び出したのか? これが思い出か?」

 啓介の声には怒りがにじみ出ていた。込み上げる怒りを必死で押さえながら啓介は沙耶に問うた。

 一方の沙耶はそんな啓介の怒りなど全く気にもしない。

「もうね、私我慢できないの」

「我慢?」

 何を言ってるのか分からない啓介は思わず顔を上げた。

 沙耶は依然、足を組んで椅子に座ったままだ。

「せっかくなら初めての獲物は知ってる人の方がいいかなあ、って思って。今日でお別れだね、啓ちゃん」

 沙耶はニコリと笑って腰を上げた。

「え?」

 その瞬間、啓介は背後に人の気配を感じた。慌てて振り向くと、黒い影がひとつ。

 黒い影の腕が伸び、何か布のようなものが啓介の口をふさいだ。湿った布からツンとした香りが啓介の鼻を刺した。

 虚を突かれ、声を出す事も抵抗もできない啓介はされるがままだった。

 全身の力が抜け、意識が徐々に薄れていく。啓介も目を閉じないように必死に抵抗するが、抗えない。

「お……お前……」

 遠くなっていく意識の中、啓介ははっきりとその影の顔を見た。


(知っている顔だ―――なぜ、お前が――――――)


 啓介の体は意思を失い、膝から崩れ落ちるように床に倒れた。


(沙耶は……沙耶は無事なんだろうか)


 両目の瞼の力が抜けてしまい、意識が闇の中へ引きずり込まれながら、啓介は残された沙耶の事が気がかりだった。

「さよなら……」

遠くからかすかに、沙耶がそう言った気がした。







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