今夜、暗い学校で
馬原啓介は夜の学校にいた。正確には自分の通う坪井高校の正門の前に立っていた。
時間は八時五十分。大久保沙耶との約束の時間には十分ほど早い。
予定ではもっと早く家を出て江津湖にでも行って心を落ち着かせようと思っていたのだが、着ていく服を悩んで、結局家を出たのが八時半すぎ。
自宅から学校まで普段なら三十分はかかるので心を落ち着かせる暇もなかった。
家を出た際、丁寧にも「今家を出た」という旨のメールを沙耶に送った。
ひょっとして学校までの道すがら、沙耶とばったり会わないかと思ってメールをしてみたのだが、姿を見ることはなかった。
乗ってきた自転車を目立たないように正門から少し離れた所に置き、啓介は沙耶が現れるのを今か今かと待った。
辺りはしんと静まり返り、闇にそびえたつ三階建ての校舎は、昼間に見るそれとはまた違った顔をのぞかせていた。
校舎や体育館の明かりは消えていて、人のいる気配は感じない。
ぽつんぽつんといくつかの校内の街灯だけが小さな光を放っているだけだった。
啓介はズボンのポケットから携帯電話を取り出し、表示されている時計に目をやった。すでに九時を五分ほど過ぎている。
(デートの待ち時間とはこんな感じなのか……)
初めて体験する孤独な時間を啓介は噛み締めていた。このまま何時間でもこの場所で沙耶を待ち続けれる様な気さえした。
それほど啓介にとってこの時間は貴重で、孤独に酔える瞬間なのだった。
唯一心配だったのは、暗い学校の前に一人立っている事で不審者に間違われはしないだろうか、ということだった。
啓介は学校に背を向け、校門にもたれかかり、夜空を見上げた。
雲の流れは早く、さっきまでの雨が嘘のように、空には小さくだがいくつかの星も確認出来た。
冷静に考えれば、わずかな明かりと静けさに包まれた学校の前に一人立っている。
元々気が小さく、臆病な啓介が長時間この状況に耐えられるわけがない。
沙耶との約束で少々興奮していた啓介の頭は、初秋の涼しげな風に吹かれてその臆病さが顔を覗かせつつあった。
学校の窓に何か動く物が映ったんではないか、音楽室からピアノの音が聞こえてくるんではないか、などと一人待つ間につい余計な事を考え始めてしまうのだ。
その時、
「啓ちゃん」
突然背後から声を掛けられ啓介は飛び上がった。人間、本当に驚いた時は声も出ないのだろう。
振り向くとそこには沙耶がいた。彼女はすでに校門の内側にいる。
「こんばんわ」
こちらに二コリと微笑みかける沙耶の顔に、啓介の心臓は驚いた事と重なってその動きを激しくした。
校内の沙耶と郊外の啓介、校門を隔てて二人は対面した。
啓介には、その校門がまるで二人の間を分かつ最大の障害物の様にも感じられた。
思えば昨夜、思わぬ不意打ちで口づけをかわしてから初めて顔を合わせたのだ。
たった一日しか経っていないはずなのに随分久しぶりに沙耶の顔を見た気がした。
学校で合わなかった分、沙耶に会えた喜びと同時に照れくささが同居した啓介の顔は紅潮していた。幸いにもそれは、街灯の小さな明かりだけでは沙耶に気付かれる事もなかった。
平常心を装いつつ、啓介は廻りの静寂に気を遣いつつ沙耶に囁いた。
「びっくりした。おどかすなよ」
「ふふ。ごめんごめん。だって啓ちゃんがぽつんと立ってるからちょっと驚かせようと思って」
沙耶はそう言っていたずらっ子の様に微笑んだ。
「学校に入って大丈夫なのか?」
すでに校内に侵入している沙耶に啓介は不安げに尋ねた。
「大丈夫だよ。門はいつも開いてるし、警備員なんかいるわけないし。今日は先生達も皆早くに帰ったみたい」
学校の周りには住宅もあるから二人の会話は小声である。
「啓ちゃんもおいで」
指先で小さく手招きする沙耶に、啓介はまるで催眠術にかかったようにフラフラと校内へ導かれた。
「こんばんわ」
学校の門をくぐり、目の前まで来た啓介に沙耶が改めて挨拶した。
間近で見る沙耶は普段学校で見る制服姿とは違って、淡い色シャツに短めのスカート姿、そして顔にはほんのりと化粧をしていた。
目の前で見つめられ、啓介は思わず視線を逸らした。
「いつの間に来てたんだよ」
「啓ちゃんが来る前だよ。一人で校庭の方、ぶらついてたんだ」
「校庭? 一人で?」
啓介は驚いた。とてもじゃないが一人で夜の校内をうろつく度胸は自分には無い。
「よく一人で行けるな。夜の学校なんか気味悪いだろ」
呆れながら言う啓介に沙耶が口元を緩めた。
「あれー、もしかして啓ちゃん恐いんだ?」
「べ、別に恐くはないさ。でも誰がいるかわからないだろ。こんな暗いとこに女の子一人で……」
男という生き物は惚れた女の前では見栄を張る生き物なのだろう。
必死に取り繕う啓介を見て沙耶はクスクスと笑った。
「そ、そんなことよりどうしたんだよ。学校休んでこんなとこ呼び出して」
話題を変えるのが精一杯なのである。
沙耶は何も言わずくるりと啓介に背を向け、小さい歩幅で一歩、また一歩と足を踏み出した。
気のせいか、啓介には少し淋しげに映った。だから啓介も何も言わずその背中を見ていた。
そして数歩行った所で急に踵を返し、たたたと啓介の方に走って来たかと思うと、
「行こ、啓ちゃん」
そう言って啓介の手を取り引っ張った。
虚を突かれた啓介は手を取られ、言われるがまま引っ張られていった。
「行くって……どこへ?」
手を取る沙耶のスピードは次第に速くなり、啓介もいつの間にかそれに合わせてかけ足になっている。
「せっかく学校に来たんだよ? 校舎を探検するに決まってるじゃない」
啓介は自分の耳を疑った。
(校舎だって?)
手を引っ張られながら啓介は夜の闇にそびえたつ黒い校舎を見上げた。
肝試しには季節外れだ、そんな事を考えたが、夜の学校と沙耶と二人きりの夜、天秤にかけた結果がどうなったかなど、答えは火を見るより明らかだった。




