刑事と少年
署長室を出ると青木はまるで瓜生に付き従うかのように彼の一歩後ろを歩いていた。
青木は目の前を歩く得体のしれない、どこか掴みどころのない男の背中をただ黙って見つめていた。鼻歌交じりで署内を歩く高校生の後ろをいかにも凶暴そうな強面の男がついて歩いているのだから、傍から見れば妙な光景である。通りすがりの署員たちも何事かと不思議そうに振り返っている。そのたびに青木は「何か文句あるのか」とでも言いたげな顔で睨みつけるからみんな慌てて顔をそむけていた。
ちょうど署の入口まで来たあたりで瓜生はくるりと青木の方へ向き直った。こちらに興味深々な眼差しを向けてくる連中を睨んでいた青木は突然立ちどまった瓜生に気付くのが遅れ、危うくぶつかりそうになった。
「ではこれで、刑事さん」
何の事か分からないでいる青木をよそに瓜生はさっき借りたタオルを返しにすぐ脇にある受付の婦警に話しかけている。そしてタオルを持ってきてくれた婦警と何やら楽しげに話し始めたのだ。
青木は我に帰り込み上げてきた苛立ちを抑え瓜生の肩を強く掴んだ。
「おい。てめぇどういう意味だ。これでってどういうことだ」
びっくりしたのは話していた婦警の方だ。今にも殴りかかりそうな青木を見て固まってしまっている。瓜生の方はというと青木のそんな様子を気にも留めない様子で涼しい顔をしている。それがますます青木の神経を逆なでした。
「こっちは聞きたい事が山ほどあるんだ。もう俺は用無しって事か。ああ?」
「まあまあ刑事さん、落ち着いて。婦警さんもビックリしてるじゃないですか」
「表出ろ」
瓜生の肩を掴んだまま引っ張ると青木は一時騒然とした署の玄関口を後にした。去り際瓜生が婦警に「それじゃ」とにこやかに手を振った事で、青木の肩を掴む手に一層の力が込められることになった。
「どういう意味だ。説明しやがれ」
駐車場の脇に引っ張ってきて手を離すと青木は腕組みをして瓜生を睨みつけた。
「痛いなあ、もう。言葉の通りですよ。じゃあこれでって」
「だからどう意味かって聞いてんだよ。さっきは俺に協力してもらうって言ってたじゃねぇか」
「うーん。さっきはそうでも言わないと色々うるさかったでしょ。ほら、あそこにいた偉そうな人が」
瓜生は指で煙草を挟む仕草をしてみせた。偉そうな人とはおそらく枕崎の事だろう。
「その場しのぎで俺を利用したってのか。初めっから俺に協力してもらおうなんか思ってなかったんだな、てめぇ」
青木は止まらない。
「冗談じゃねぇぞ。こっちは同僚がやられてんだよ。俺はどんな手を使ってもお前についていくぞ」
高校生相手に今にも殴りかかりそうな勢いの青木を瓜生はじっと見つめている。
それは激情している青木を冷ややかな目で見るのではなく、まるで青木の一言一言、一挙手一投足を吟味している様だった。
「刑事さん、落ち着きましょう」
青木は興奮のあまり少し息を切らしている。
「刑事さん、さっき枕崎さんに言われませんでしたか? 世界には知らない方がいい事もあるって」
「ああ、そんなこと言ってたな。だがそんなもん知るか。俺は知りたいんだよ」
「ボクにはそれが分からないんですよ。同僚の方が襲われたことに関しては気持ちは分かります。でも上の人間が関わるなと言っているのにあなた方は踏み込んでしまった。その結果、彼は襲われた。違いますか?」
確かに瓜生の言う事はもっともだった。休みを言い渡されていたにもかかわらず、青木と木下はそれを破り、現場で捜査まがいの事をやった結果なのである。青木もその事に関しては何も言い返せない。
「もう一度言います。あなたがどうしてそこまでこの件に関わろうとするのか、ボクには分からないんです」
青木は押し黙ったまま、瓜生を睨む。なぜこの件にここまで首を突っ込みたがるのか、自分でもよく分からない。(木下が襲われたから)しかしそれは後からの事で、首を突っ込んだから木下が襲われたと言った方が正しい。青木は答えが見つからない。瓜生の≪なぜ≫という問いに答えられないのだ。
「刑事さん、あなたに家族はいますか?」
質問が変わり、青木はハッとした。瓜生の発した家族という単語に対してすぐに家を出ていった妻の春菜と幼い娘の加奈の顔が脳裏に浮かんだ。
内川にもうすぐ戻ってくると言われたとはいえ、今は完全に別居状態だ。果たして家族といえるのかどうか……。
「まあ、一応……いるな」
青木は曖昧な返事をした。
「一応? 事情はよく分かりませんがいるんですね、家族が。じゃあなおさらあなたは知らない方がいい」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。家族は関係ねぇだろ。こんな仕事してんだ。多少の危険は承知のうえだ」
「別に家族が危険に巻き込まれるとかそういう事じゃないんです。あなたが危険なんですよ。色々知ってしまうと」
「俺が?」
「そうです。知ってしまえば後戻りはできない。記憶を自由に消せるわけじゃありませんからね。ここまで言っても知りたいですか、あなたは?」
「後戻りするつもりもねぇよ、俺は」
「知ってしまえばあなたの精神がどうなるか、我々は保障できない。例えばバスや電車の中、映画館で隣に座った人でさえあなたは疑ってしまうかもしれない。ただ道ですれ違った人はもちろん身近な人、家族でさえも、です。それでも知りたいですか?」
「疑うのは刑事の仕事だ」
「刑事とかそういう問題じゃないんです。ヒトとして、です。知らなければよかったと思うかもしれない。あなたにそこまでの覚悟はありますか?」
「しつこいなてめぇも」
瓜生のしつこい問いに青木もいい加減苛立ってきた。頑固が服を着て歩いているような男がちょっとやそっとの脅しで引き下がるはずもない。青木の腹はすでに決まっていた。
瓜生の方もさっきまでのどこかおちゃらけた雰囲気はなりを潜め、その鋭い目つきに青木も圧倒されそうになった。
「ボクは三回念を押しました。あなたの覚悟を見極めたかったんです。わかりました。そこまで知りたいのなら教えましょう」
瓜生はそれまでの硬い表情から一瞬にして穏やかな笑顔へと変わった。
青木は正直、瓜生と対峙していたそこ数分間のその場の空気の重さに押し負けまいと必死に抵抗していた。蛇に睨まれた蛙がその圧力に抗うかのように、青木もまた瓜生の放つ、独特のプレッシャーに気押されつつあったのだ。事実、あと数回念を押されていたら青木は諦めて引き下がったかもしれない。
高校生の餓鬼にここまでの迫力を出させるほど、今回の件は何か大きな秘密があるのだろうと青木は確信した。と同時に緊張の糸が切れた青木のシャツの下は汗が噴き出していた。
「ここではあれですからドライブでもしましょうか。少し時間がありますから。でもその前に刑事さん、着替えとかお持ちですか? その格好じゃ目立つなあ」
眉間にしわを寄せた瓜生が青木の血のついたシャツをじろじろと舐めるように見つめる。
青木は木下の血がたっぷりとしみ込んだシャツを着ていたことなどすっかり忘れていた。
幸い、更衣室のロッカーに呼びのシャツが何枚かあったはずだ。
「おう、ちょっと着替えてくるわ。悪いが待っててくれるか。なんか飲むか?」
「お気遣いなく」
瓜生はわざとらしく深々と頭を下げた。
駐車場から署に入るまで青木は何度も後ろを振り返り、瓜生の姿を確認した。
(うまい事言って逃げるつもりじゃねぇだろうな……)
そんな青木の気持ちを察したのだろう、瓜生はニコニコしながら大きな声で、
「逃げませんから大丈夫ですよ。ごゆっくりどうぞ」
青木はその声に恥ずかしくなって急いで更衣室へと向かった。




