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落ち着かない夕暮れ

 家に帰り着くと馬原啓介はぐっしょりと濡れた制服を洗面所で脱ぎ捨てた。

 帰宅した啓介を見るなり母親が「あらあら、すぐシャワーでも浴びたら」と笑って台所へと入って行った。それくらいひどい姿だったのだろう。

 言われるまでもなく啓介は自分の部屋にも戻らず洗面所へと直行したのだ。

 雨に濡れた制服は汗と混じってものすごく不快な臭いを醸し出していた。裸になって自分から出ている嫌な臭いから解放された啓介は浴室へ入りシャワーをひねった。

 冷水に近い水温のシャワーを頭から浴びながら啓介は瓜生の姿を思い出す。さっき江津湖で見た瓜生の姿だ。

 朝、学校から忽然と姿を消し、どれだけ電話で呼び出そうがメールを送ろうが梨のつぶてだった男があの湖にいたのだ。雨の中、傘も差さず。

 啓介が帰宅途中、パトカーの赤色灯が気になり回り道をすると野次馬の中に瓜生の姿を見たのだ。そして気のせいかもしれないが、まるで啓介に見つかったのを察したかのようにすぅっとその場からいなくなってしまった。

「あんなとこでなにしてたんだ?」

 朝に学校を抜け出した瓜生が夕方四時頃に江津湖にいた。それも制服姿のまま。

 何時間もの間連絡もとれず何をしていたんだろうと啓介は不思議に思った。

 昨日初めて知り合っただけで、まだ友達と言えるかどうかも怪しい関係なのだが

 やけに気になる。

「あんな目にあわされたんだ、無理もないよな」

 シャンプーで泡立った頭を洗い流しながら啓介はぽつりと呟いた。

 瓜生をあの場で見つけた後、啓介は携帯電話片手に瓜生がいた場所まで自転車を走らせたのだった。

 息を切らして瓜生のいた場所まで着いたが彼の姿は見当たらない。自転車で近辺をうろうろしてみるが結局瓜生を見つけることは出来なかった。

 探すのを諦め、一体瓜生は何を見ていたんだろうと数人の野次馬が覗いている方へと目をやった。

 警察が何かしているのは湖の反対から見ていたから分かっていたし、向こうから見た景色と距離が縮まっただけでなんら変わった事はなかった。

 遊歩道に熊本県警と書かれた黄色いテープが張られ、白い手袋をした刑事らしき男と数人の制服警官、それと青い作業着を着た男が数人草の茂みに這いつくばって何かを探している様だ。それはテレビドラマなんかでもよく見かける光景だった。

 啓介はいい加減雨に濡れるのが嫌になってきたので野次馬根性も切り上げてさっさと帰宅の途についたのだった。

 帰り際、もしかして瓜生を見かけないかとキョロキョロしていたが、彼を見かける事は無かった。


 シャワーを浴びて頭も体もスッキリさせたところで、啓介はパンツ一丁の姿で二階にある自分の部屋へと入った。そしてゴロンとベッドに横になり天井を見つめた。

 時間はやがて六時になろうとしている。暦のうえではもう秋に入り、昼の長さと夜の長さが逆転しようかとしていた。強い西日がカーテンの隙間から啓介の部屋へと差し込んでいる。

「あと三時間……」

 沙耶との約束の時間が迫ってきていた。今日はやけに時間が経つのが遅く感じる。

 夜の学校に呼び出すなんてどんな要件なのだろう。啓介の脳は今度は沙耶の事でいっぱいになっていた。さっきまでは瓜生、今は沙耶と啓介の脳は行ったり来たり目まぐるしく活動していた。

 昨日の夜、沙耶は学校を辞めると言った。啓介はショックだったし、やっとゆっくり話ができたと思った矢先の沙耶の告白に動揺もした。声を掛けれずにいたこの数年間を取り戻せると思っていた。

「思いを伝えるべきか……」

 啓介は枕を顔に押し当てた。そんな事が出来るなら何年も沙耶に話しかけれずにいるわけがない。告白というこれまでの啓介の人生で特に縁のなかった行動を想像しただけでも体中の血液がぐるぐると動きを速め、顔を真っ赤に染めるのだった。

「無理だ、無理無理。やめとけやめとけ」

 まるで自分で自分を落ち着かせるように何度も何度もつぶやく。

 たったの二文字を口にする事がこんなにも難しいものなのか。気持ちを伝えようとする事がこんなにも自分を悩ませるのか。啓介は改めて勇気の無さを痛感した。

(君も君なりの強さを持っている)

 啓介はふと瓜生の言葉を思い出した。

「そういやそんなこと言ってたなあ……。あれはどういう意味なんだろう」

 自分に少しでも強い部分があるならもっと沙耶と同じ時間を過ごせたかもしれない。それが無いから結局沙耶が転校すると知った今まで遠くから彼女の姿を眺めるに留まっていたのだ。昔から意気地のない事を自覚している啓介は瓜生がどういうつもりであんな事を言ったのか不思議でならなかった。強くないから今もこうして一人うじうじしているのだから。

「喉が渇いたなあ……」

 そんな事を思いながら啓介はいつの間にかウトウトと夢の中へと落ちていった。




「啓介、ご飯できたよー」

 一階から呼ぶ母親の声に啓介はハッとしてベッドから飛び起きた。そして慌てて枕元に置いてある目覚まし時計を手に取った。時間は七時半を回っていた。

「ああ、びっくりした」

 いつの間にか睡魔に襲われいたところに突然声を掛けられたことで、啓介の心臓はバクバクしている。約束の時間に寝坊してしまったとでも思ったのだろう。まだ時間に余裕があると分かると啓介はホッとした。

 ボーっとする頭を振りながらゆっくりと階段を降り、食卓の席についた。父はまだ帰っていない。馬原家では帰宅の遅い父をおき、啓介と母の二人で先に夕飯を済ますことが多い。

 沙耶との約束の時間が迫り、啓介は食事中母に話しかけられても「ああ」とか「うん」という返事だけで心ここにあらずといった状態である。

「どこか調子悪いの?」

「ううん」

「今度ね、みんなで温泉にでも……」

「ふうん」

 といった具合である。

 首をかしげる母親をよそに食事を流し込んだ啓介はさっさと自分の部屋へと戻っていった。

 約束の時間より余裕を持って外出しようと考えていた啓介は洋服ダンスからジーンズと紺色のTシャツを引っ張り出し、急いで着替えを済ませた。

 八時を過ぎる頃には啓介は落ち着きを失い、鼓動も少しずつそのスピードを速めていった。

(デート前の心境は皆こんなにも落ち着かない感じなのだろうか)

 部屋にある姿見の前に立ち、自分の服装を確認する。そして一つ、「ふぅ」と深く息を吐くと、

「よしっ」

 と、まるで鏡の中の自分に「頑張ってこい」とでも言うように気合いを入れ、意を決した啓介は母親に「コンビニ」行ってくるとだけ告げて玄関を出た。母親も「気をつけて」と言っただけで気にも留めていない。

 雨はすでに止んでおり、外は昼間より気温が下がって、涼しい風が心地よかった。

 啓介は自転車にまたがると、はやる気持ちを押さえ、ゆっくりとペダルを踏み込んだ。

 途中、歯を磨くのを忘れた事を後悔したが、今更戻るわけにもいかず鈴虫の声に秋を感じながら軽快に自転車を走らせた。





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