第五の事件/4
一瞬、青木は何が起きたのか理解できなかった。
目の前にいる二人のホームレスの表情のあまりの変貌ぶりに振り向くと、数メートル後ろで木下が膝から崩れ落ちていく光景が目の前に飛び込んだのだ。ほんの数分前まで隣にいた木下が。
その光景を青木の脳が理解するのには数秒の時間がかかった。
「木下!」
呼びかけるやいなや青木は木下の倒れている斜面へと慌てて柵を飛び越えた。
着地した瞬間、草に足を滑らせバランスを崩したが、それほど青木はひどく狼狽した。
「どうした木下!」
木下の肩を抱きかかえ、もう一度名前を呼んだ。
薄く開いた目は視点がうつろで、焦点があっていないし、顔面は真っ青で血の気が引いている。今にも意識を失いそうだ。
白いワイシャツの首元は真っ赤に染まっていた。
抱きかかえた青木の手は木下の血がべったりとついている。どうやら木下の左の首あたりから出血しているようだ。
青木はハンカチを取り出し、木下の首元へ押し当てた。
出来るだけ出血の勢いを抑えるためだ。
そのおびただしい出血に青木は木下の生命の危険を感じ取った。
「おい、救急車だ。救急車を呼んでくれ!」
青木は二人のホームレスに叫んだ。
男達も木下の様子を見てどうしたらいいのか分らずただ立ち尽くしているだけだった。
「あ……くろ……」
木下が声にならない声を必死に喉から絞り出そうとしている。
「どうした。何があった?」
「く…ろい……おと……」
「く、くろい……黒い? 黒い……男か」
木下のか細いメッセージを必死に聞き取りながら青木は斜面の下にある小屋の方に目をやった。
湖の水はゆるやかに、静かに流れ、木下が入ったであろうその小屋も何も変わった様子はない。
青木は今度は自分たちがやって来た方向へと視線をやった。
「おい! お前!」
ホームレスの鈴木が急に叫んだ。
ちょうど青木が視線を向けた五メートル程先に、茂みの陰から柵を飛び越え、遊歩道を走って行く黒い服が見えた。
「あいつだ、刑事さん。あいつが俺の家に……」
「お前ら! こいつを頼む。早く救急車を呼べ。警察もだ!」
そう言うと青木は勢いよく走り出した。
木下をあのまま会ったばかりのホームレスの男達に任せたままでいいものかと頭によぎったが、逃げて行く犯人を見逃すわけにはいかない。木下も刑事なのだ、犯人確保を優先するべきだと分ってくれるはずだ。そう自分に言い聞かせ、逃げて行く男を追いかけた。
先に行く男は、遊歩道を行き交う人の間を縫ってどんどんスピードを上げて逃げて行く。
その距離は一向に縮まらない。
(畜生め。なんて足の速い野郎だ)
青木もその後ろ姿を見失うまいと必死に食らいつく。
遊歩道を行く人は何事かとこの二人のチェイスを振り返り、または立ち止まり眺めている。
そして湖の遊歩道は右方向へ緩やかなカーブに差し掛かった。
黒い服の男は先にカーブを曲がり青木の視界から消えた。
(まずい)
青木も息を切らしながら必死にスピードを上げ、男より少し遅れてカーブへとたどり着いた。
「きゃっ」
「うわっ」
カーブを曲がった瞬間、青木は激しい衝撃とともに腰を地面に叩き付けてしまった。
相当なスピードで走っていたから青木はしたたかに腰を打った。
「いつつ……」
腰をさすりながらも慌てて黒い服の男の姿を確認した。辺りを見回すが、その姿はすでに見えなくなってしまっていた。
「くそったれ……」
ふと我に帰りその激しい衝撃の元へ視線を向けた。
「おい、大丈夫か。悪かったな」
木下を襲った男を見失ったせいで青木の機嫌はすこぶる悪い。とても申し訳無く思っているような口調ではない。
走るのを止めてしまったせいで肩で息をしている。
「は、はい。すいません」
衝撃の元は女の子だった。
遊歩道のカーブで青木と女の子は出会いがしらにぶつかってしまったのだ。
曲がった瞬間に女の子の姿が見えたので、反射的に体をひねらせよけようとしたが、青木も全力疾走していたので避けきれず、結局ぶつかってお互いが尻もちをつく格好になってしまった。
「大丈夫か。ケガはねぇか」
彼女の手をとり体を起してやる。
「はい。大丈夫です。びっくりして倒れただけだから……」
よく見ると女の子は高校生の様だった。薄い水色のブラウスに紺色のスカートという制服姿である。
ぶつかったせいで持っていたカバンが吹き飛んでしまったのだろう、慌ててそれを拾いに行っている。
青木はポケットから名刺を取り出した。
「悪かったな。もし後からケガしてる所とかが分ったらここに電話してくれ。俺は警官だ。あやしいもんじゃねぇから」
「すいませんでした。失礼します」
それだけ言って名刺を受け取り女子高生はそそくさと小走りに行ってしまった。
(近頃のガキは愛想もねぇな。てめぇのせいでホシを見失ったんだぞ)
青木は男を見失った事と腰の痛みにイライラしながら、激しい苛立ちをどこへもぶつけられずにいた。
遠くで救急車のサイレンが聞こえてきた。
(木下……死ぬんじゃねぇぞ)
来た道を戻ろうとした時に青木はふと後ろを振り向いた。
ぶつかった女子高生の姿はすでに見えなくなっていつ。
(あの子は向こうに行くから俺とぶつかったんだろ。なんで来た道戻ってんだよ)
そんな事を考えながら足早に木下の倒れている現場へと急いだ。




