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第五の事件/2

 その日は厚い雲が広がるどんよりとした空模様で、強い日差しはないものの、湿気の多い蒸し暑い日だった。

 木下の電話の後、小一時間ほど準備して青木は江津湖へと車を走らせていた。

(まさか木下のヤツがな……)

 ハンドルを握りながら青木はほくそ笑んでいた。

 木下に急かされる日が来るとは思わなかったのだ。

 青木も布団の中で事件の事ばかり考えていたのは確かだが、現場に行ってみようとは考えなかった。

 上からの命令に反発するのも日常茶飯事だった青木が後輩の木下に尻を叩かれたのだ。

(俺も年を取ったのか)

 もともと命令されたからと言ってこの事件から手を引くほど青木も大人しい訳じゃない。

 木下も同じことを考えていたとあっては命令などクソ喰らえになってしまった。

(始末書でもなんでも書いてやるさ)

 こうなったら止まらない。

 正午を過ぎた頃、青木は江津湖のボート小屋がある駐車場に入った。

 平日の午後だが駐車してある車が多い。

 外回りの営業マンなどが木陰に車を停めて小休止している様だ。

 ボート小屋では老人たちが談笑し、その横で釣り糸を垂らす人もいる。

 そんな光景をよそに青木は木下の姿を探した。

 彼の車は停めてあるが姿が見えない。

「先に行きやがったかな」

 青木はふらっと、中島に続く橋へと歩き出した。

 そして橋の上で立ち止まり湖を見渡した。

(このどこかに人間を食料にする野郎が潜んでやがるのか……)

 この平和を絵に描いた様な日常に、悪が潜んでいるかと思うと青木は恐ろしくもあった。

 偶然そこにいて、偶然そいつの傍を通って、偶然襲われて命を落とす。

 警察官という職業に就いて、色々な死を見てきた青木だがいつも思う事があった。

「死は誰にも平等にやって来ると言うが、死に方は平等じゃねぇなあ」

 死の現場に直面するたびに青木は木下にこう呟いていた。

 不慮の事故で命を落とす者、何の言われもなく誰かに命を奪われる者……中には因果応報だと思う事もあったが、突然やってくる死ほど恐い物はないと青木は常々考えていた。

(死人が出る前に犯人を捕まえねぇとな……)

 小さな子の手を引く母親が目の前を通る姿を見て、青木はそう心の中で呟いた。


「青木さーん」

 振り向くと木下が小走りで駆け寄って来た。

「どうしたんですか、非番の日に。散歩ですか?」

 木下はわざととぼけてみせた。

「散歩だよ。おれがこんなとこいちゃ悪いかよ」

「意地が悪いなあ。お疲れ様です」

「おう。どこ行ってたんだよ」

 よく見ると木下はコンビニのビニール袋を手に持っていた。

「なんだそりゃ?」

「青木さん来る前にこいつを買っておいたんですよ」

 袋を開くと缶ビールが五本入っている。

「昼間っから一杯ひっかけようってのかよ。俺は飲まねぇぞ」

「いやだなあ。いくら非番でも昼間っからこんな外で飲まないですよ、いくら僕でも」

「じゃあ何するんだよ」

「いきなり二人も刑事が来たら警戒されるでしょ。スムーズに話が聞けるようにお近づきの印ですよ。冷たい物飲んで気持ちよく話してくれるように……ね」

 なるほど、目的のホームレスの男に渡すための物らしい。

「えらく気のきいた事するじゃねぇか」

「へへ。気難しい人が近くにいたら色々気がまわるようになるんですよ」

「悪かったな。気難しくて」

 ケラケラと木下が笑う。

「頭来るじゃないですか。いきなり捜査しろって言われたかと思えばもう外れていいって言われたり。理由も教えられずそんな事されちゃ気になってしょうがないですよ、この事件。だからどんな物でもいいから情報を手に入れたいんですよ」

 いつもはおちゃらけたこの木下という男が、急に引き締まった刑事の顔になった。

 青木と行動を共にするようになって少しずつだが成長している様だ。

「だがよう木下。今日もいい情報取れなかったらどうするよ?」

 二人は目的のホームレスのもとへと歩き出していた。

「今日はえらく弱気だなあ、青木さん。今日何も取れなかったらキッパリ諦めますよ、僕ぁ。あのホームレスのおっちゃんが心残りでしたからね。どうせ上に理由聞いたって教えてくれないだろうし、きれいさっぱりこの事件の事は忘れます」

 確かに木下の言うように青木はどこかこの件にもう関わりたくないと思っているのかもしれない。

 昨夜、内川に妻と子供が戻って来ると聞いて、いままでは攻めの青木が守りに入ってしまっているのだ。

(今日何もなけりゃ俺もこの事件の事は忘れちまうか)

 青木は木下と同じようにそう決心した。


「ところでなあ木下。例えばだ、人を食う様な異常なヤツが何人もいたらどう思うよ?」

「なんですか急に。今日は何かおかしいなあ。人を食う?

 食べるってことでしょ。事件ですか?」

 青木はなんとなく内川が口にした質問を木下にぶつけてみた。

 自分ではなかなか答えを出す事が出来ないから、この若い木下がどうとらえるのか興味があった。

「事件じゃねぇよ。昨日そういう映画観ちまってよ。ふと思い出したから聞いてみたんだ」

「青木さんもそういう映画観るんですねぇ。ゾンビかなんかな。どうだろ、そんな猟奇的な事するような連中とは友達になれそうにもないなあ」

 うーんと、木下は真剣に考え始めている。

「そうだなあ、どんな味がするのか聞いてみますか。味は牛に近いのか、豚に近いのか。それとも鳥かなって。なんで人じゃないといけないの? とか」

 本気か冗談かよく分らない返事が返って来た。

「お前に聞いた俺がバカだったよ」

「聞いといてこれだもんなあ。でも実際そうじゃないですか。人を食ったら不老不死になれるとか理由があるなら、ゾッとしませんがまあ納得はできる。納得いく理由が欲しいですよね。腹が減ったからその辺歩いてる人を食べた、じゃあ納得できない。大体、人が食料ならそいつにとっちゃ

 歩行者天国はまるでデパ地下ですよ。ご馳走天国だ。青木さんだったらどうするんです? そんな連中に出会ったら」

 木下の言う事も一理あった。理由を知りたいという意見は青木も賛成だった。

 どんな事件もその結果に至る理由がそれなりにあるものだ。

 人を食す理由……青木には想像もつかない。

「それがわからねぇからお前に聞いてみたんだよ。まあ気にするな」

「なんかひっかっかるなあ」

 そう話しているうちに、目的の青いブルーシートの屋根が遠くの方に見えてきた。





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