落ち着かない日
男は渇いていた。
(今はまずい。奴らが動いている……。だが、この渇きは我慢できない。よりによって今やってくるとは……)
暗い部屋で横になり天井を見つめている。
男の中に渦巻く欲、普段は我慢し、抑え込んでいるその欲が突然暴走を始めようとしていた。
(……どうするか)
眠りに就こうとするがその欲によって余計に目が冴えてくる。
これまでも渇きは突然やってきた。
だがどうにか自分を誤魔化してきたし、最悪の場合は非常用の物も身近に保管してあった。
ちょうどそのストックが運悪く底をついていたのだ。
(よりによってタイミングが悪い。早く仕入れなくてはと思っていた所なのに……。どうするか)
頭の中で繰り返す。
どうする
どうする
どうする……。
すうっと目を閉じ、この渇きを解消する方法を考える。
思いつくのはただ一つ。
(あれを利用するか……)
布団から抜け出し、携帯電話を手に取る。そして誰かへとメールを送った。
(目立つ行為は慎まないといけないが仕方ない。明日、この渇きを少しでも満たす事にしよう)
安心した男は目を閉じ、ようやく眠りに着いた。
明日摂れる食事に胸を躍らせながら……。
◆
啓介は朝から何も手に着かなかった。正確に言えば昨夜からと言っていい。
沙耶の思わぬ行動で、啓介はファーストキスというものを経験したのだ。
テレビや漫画でイチゴとかレモンだとかの味がするとか言っているがそんな物を味わう余裕など無かった。
それは一瞬の出来事で、微かに沙耶の洗い髪のいい香りが啓介の鼻先をくすぐっただけだった。
あのくちづけの後、しばらく啓介は公園に立ち尽くしていた。
家に帰ったのは日付が変わるギリギリのところで、心配した母親に酷く叱られた。
だがそんな説教など左耳から右耳へと抜けて行くだけで、啓介の頭には全く届いていなかったのだ。
それだけあの初体験は啓介にとって生涯忘れる事が無い出来事だろう。
もう沙耶が竹内と付き合っているという噂話などどうでもよくなっていた。
あのくちづけが答えなのだ、噂は噂にしか過ぎないと勝手に解釈してしまっていた。
朝、学校に着いても啓介は落ち着かない。沙耶の顔をまともに見れない様な気がするのだ。
A組の教室の前を通る時もなるべく室内を見ない様に通った。その動きはどこかにぎこちない。
「馬原君、おはよう」
振り向くと瓜生がいた。
「昨日は悪かったね。妙な事に巻き込んで。お腹はまだ痛むかい」
言われて思い出したが、瓜生と一緒に不良連中とからまれたのも昨日の事だったのだ。
昨日は色々な事が起こりすぎていた。
「いい初体験だったね、昨日は。いやあめでたい日だった。なあ馬原君。ははは」
笑いながら瓜生はC組の教室へ入って行った。昨日の事などなんとも思ってない様子だ。
啓介にはあのまま不良連中が黙って引き下がるとは思えないのだ。
それに瓜生の初体験という言葉に啓介はドキッとした。
殴られるという初体験以上の初体験を済ませたからだ。
A組の方を見て、一人で照れくさくなって慌てて自分のB組へ入って行った。
教室へ入るなりクラスメイトの岩崎が寄って来た。
「啓介、お前大丈夫かよ」
「え? 何がだい」
「あの転校生、瓜生だよ」
岩崎は妙に深刻な顔である。
「瓜生君? 彼がどうしたんだい」
「昨日、お前も一緒だったんだろ、あいつと」
「あ、ああ……。たまたま瓜生君と話してたんだよ。そしたら……」
「あいつ、十五人全員ボコボコにしたんだろ? 学校中噂だぜ」
「はあ?」
啓介は驚いて間抜けな声を出した。
啓介の知る限り瓜生が殴ったのは二人だ。二人をのした後、瓜生と自分はそそくさと公園を後にしたはずだ。
「番長の大山なんかひどいケガだったらしいじゃないか。どんな事したんだアイツ?」
どんなもなにも腹に一発入れただけだ。啓介は目の前でそれを見ているし、そんな大ケガする様な事はしていない。
「まさかお前も瓜生と一緒に……んなわけないか」
「ちょ、ちょっと待って。十五人って全員殴られたってのか?」
「公園はちょっとした騒ぎだったらしいぜ。近所の人が学校に連絡したってさ。公園で生徒が乱闘してケガしてるって。警察まで来たとか……」
啓介は言葉が出ない。そんなはずはないのだ。
確かに瓜生は暴力を振るったが、一人は啓介を守るためだし、もう一人はあの大人数を黙らせるための最低限の行為だった。
おかげでそこにいた不良たちは瓜生に対して戦意を失ったし、それ以上の暴力を振るう理由は無かったはずだ。
「それはないよ。彼はそんな事してない。僕はずっと横にいたんだ―――」
そういえば―――あのあと学校で瓜生は用事があるとかで教室に戻ると言ってそこで別れた。
(まさかあの後……)
だがそこで啓介を帰した後、わざわざ公園に戻る必要があるのか。しかもご丁寧に全員をボコボコにする理由が啓介には理解できない。
始業のチャイムが鳴りだしたがそんな事構わず、教室を飛び出した。
転校してきたばかりの瓜生と話したのは昨日が初めてだったが、彼がそこまであの不良たちを痛めつけるとはとても思えなかった。
昨日教室の戻ると言いながら本当は公園に戻ったのだろうか。
啓介は勢いよくC組へ飛び込んだ。
驚いた生徒たちが一斉に啓介の方を向く。
普段は人に注目されるのを嫌う啓介だが今はそんなことは頭にない。
室内を見回すが瓜生の姿を見つけられない。
「う、瓜生君は?」
近くにいた男子生徒に尋ねる。
「あれぇ。さっきまでいたと思ったんだけど……」
啓介はそれを聞いてまた外へ飛び出した。
携帯電話を取り出しダイヤルを回す。と、同時に学校の正門へと走り出した。
「おい馬原ぁ、チャイム鳴ったぞ」
すれ違う教師に目もくれず階段を降りる。
耳には携帯電話の電源が入っていないというアナウンスだけが繰り返し流れていた。




