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青女月の夜に/4

 幸せというものはは感じるものなんだなと改めて啓介は思った。

 どんな富や名声を得ようが、今の啓介にとってそんなものは幸せとは程遠いものなのだ。

 人によってはそんな馬鹿なと言うだろうが、沙耶と視線すら合わせなかった空白の数年間を埋めてしまうほどの、とても幸福に満ちた時間がそこにはあった。

 ありふれた言葉を使うならば、このまま時が止まってしまったらどんなにいいかとすら思えた。

 ふと喉の渇きを感じた啓介は近くの自動販売機で飲み物を買い、再びベンチで沙耶との会話を楽しんだ。

 沙耶の涙の理由は分らなかったが、二人はそれから三十分ほど思い出を語り合った。

 話しかける事の出来なかった数年間分の言葉がまるで江津湖の湧水の様にどんどん溢れてくる。

 そのたびに沙耶は笑顔になったり時には意地悪な表情をして見せたりしていた。

 ただ、沙耶はさっきの涙の理由も話さないし、特に気になる竹本との関係も啓介は聞き出せずにいた。その事を聞いてしまえば、この幸せな時間がガラガラと崩れていって仕舞う様な気がしたからだ。

 できれば竹本とはただの噂に過ぎず、啓介の勘違いだったのだという願望を捨て切らずにいた。

「ほんと啓ちゃん声かけてくれなくなったもんね、中学行ってから」

「だ、だってクラスも一緒にならなかったしさ……」

「二年の修学旅行の時だって……」

「そりゃああのとき沙耶が……」

 他愛のない会話が途切れることなく、時間だけが過ぎていった。

 時折、犬の散歩をする老夫婦やジョギングをする若者が二人のそばを通り過ぎて行ったが、二人は完全に自分たちの世界へと入り込んでいた。

「でも啓ちゃんが一緒の高校だって知った時はうれしかったなあ」

「え?」

「私たちの中学からあの高校行ったのってふたりだけじゃない? 受験した人たちみんな落ちちゃって。誰も知り合いがいないから心細かったんだ。でも入学式の時啓ちゃん見かけてあれ?って」

 確かに啓介と沙耶の中学から坪井高校を受験したのは十数人いた。啓介の数少ない友人も一緒に受験したのだが、みんな落ちてしまった。

 実際、啓介も沙耶がどこの高校を受験したのか知らなかった(気にはなっていたのだがわからずじまいだった)し、高校で沙耶を見かけた時は胸が高鳴ったのは言うまでもない。

「私も声かけたかったんだけどね。なんか照れくさくって」

「照れくさい?」

「なんて言うのかなあ、中学高校に行ってみんな少しずつ大人になっていって……なんか今までみたいに声を掛けにくくなったんだよね」

 小学生から少しずつ大人になるにつれ、異性というものを意識するようになるものなのだろう。

 人それぞれ個人差はあるのだろうが、啓介と沙耶は異性への意識が大きかったのかもしれない。

 実際、啓介の方も沙耶を意識するあまり沙耶に声を掛けれないでいたのだ。

「またこうやって啓ちゃんと話できてよかった。もう嫌われたのかと思ってたしね」

(嫌うわけないだろ)

 心の中で啓介は叫んでいた。

「僕も話せてよかったよ。また明日から普通に声を掛けれそうだし……」

 そう言いかけるとそれまで並んでベンチに座っていた沙耶が急に立ち上がった。

 そしてくるっと驚く啓介の方へ振り向いた。

「実はね、啓ちゃん……。私学校辞めるんだ……」

 一瞬啓介の頭は真っ白になった。突然の告白に初めは何の話を沙耶がしているのか理解できなかった。

 ぱあんと頭をはたかれた様な衝撃が啓介を襲った。

「辞める? 何を?」

「……学校」

「や、辞めるってどうして」

「おばあちゃんの体調が良くないんだ。だからお父さんたちの所へ一緒に来なさいって。ごめんね、急にこんな話して」

「だからってそんな……」

 そういえば沙耶は祖母と二人暮らしと聞いていた。だが一度も顔を見たことはない。両親もそうだ。

 言われて気付いたが啓介は沙耶の家庭の事を全く知らないのだ。

 両親が海外に行くので沙耶だけは祖母のいる熊本へやって来たという事は小学生の時に聞いた様な気がする。

 しかしそれ以外の事は知らなかったし、沙耶も家の事をあまり話したがらなかった記憶がある。

「本当はね、大学までは日本にいなさいってお父さんもお母さんも言ってたんだけど。体調の悪いおばあちゃんを私一人でっていうのも無理だから。それなら一緒に向こうに来なさいって」

「向こうって遠いの?」

「今はヨーロッパにいるみたい」

「ヨーロッパ……」

 啓介にとってはヨーロッパだろうがアメリカだろうがそんなことはどうでもよかった。

 沙耶の姿を見る事が出来なくなるという現実があまりにもショックだった。ようやく明日から昔の様に話しかける事が出来ると思った矢先の沙耶の告白だった。

「それで……いつ?」

「来週の日曜日。もう学校には届け出したんだ。ごめんね、久しぶりに話できたのにこんな事で」

 それからしばらく啓介は黙り込んでしまった。

 幸せな時間からまるでジェットコースターの様に急降下してしまったせいで、横にいる沙耶の存在すら一瞬忘れてしまっていた。

 二人の間に気まずい沈黙が続いた。

「そろそろ帰ろうか」

 啓介が小さな声で囁いた。時間はすでに十一時をまわっていた。

「そうだね。遅くなっちゃった」

 沙耶は出来るだけ明るく振舞おうとしている様だった。

 先に沙耶がベンチから立ち上がった。

 気落ちしている啓介もそれにならってゆっくりと腰を上げようとした、その時―――。

 啓介の唇に柔らかい、甘い香りのする何かが飛び込んできた。

 啓介は何が起きたのか混乱した。

 沙耶の唇が啓介のそれと重なっているのだ。それはこれまで感じた事のない感触だった。

「じゃ、また明日学校で。おやすみ啓ちゃん」

 そう言うと何事もなかった様に沙耶は暗闇の中を駆けていた。

 啓介はしばらくの間呆然とそこに立ち尽くしていた。

「また明日……」

 最早声にならない。

 啓介はいつまでも沙耶が走って行った先をただただ見つめ続けていた。



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