青女月の夜に/3
時間は九時になろうとしていた。
啓介が江津湖に着いた三十分前までは湖の遊歩道を散歩したりランニングをする人もちらほら見かけたが、今はもうほとんど見かけない。
昔は夜でも駐車場が解放してあり、車の出入りが自由だったが、数年前から夜中に江津湖内の公園や公衆トイレを壊したり、馬鹿騒ぎする輩が増えて、施錠されるようになってしまった。それ以来夜間の湖での人影は少なくなっている。
啓介と沙耶の二人は並んで遊歩道を歩いていた。
「ごめんね、急に呼び出して」
急いで来たのだろう、沙耶の息遣いが少し荒い。ふわりと風呂上がりのいい香りがした。
「お風呂入ったら遅くなっちゃった。待った?」
人を呼び出しておいて風呂に入るなんて女性はそういう生き物なのだろうかと啓介は不思議に思った。
(なんて呑気なんだろう)
一方の啓介などはまるで約束の時間に寝坊したかの如く、大急ぎでここまでやってきたのだ。
だがそんな様子は微塵も見せない。いや、見せたくないのだ。
「いいや、ちょっと前に僕も着いたから。どうした、急に呼び出して」
クスッと沙耶が笑う。啓介の体中の血液はかつてないほどのスピードで駆け巡った。
「久しぶりだね、二人でこうやって歩くの。小学校六年生の頃以来かなあ。中学行ったら啓ちゃん全然話しかけてくれなくなったもんなあ」
「そ、それは……」
沙耶がわざと意地悪な表情で顔を覗くと啓介の顔は真っ赤になった。幸いにも辺りは暗いから沙耶には気付かれてはいない。
こうやって二人で歩いていると確かに一緒に学校から帰っていた子供の頃を思い出す。
あの頃もこうやってお互いわざと意地悪を言い合ったものだ。
沙耶も啓介と一緒でどちらかと言えばクラスでも目立たない存在だった。
沙耶は転校生ということもあって、なかなか友達が出来なかった。
帰る方向が同じだった啓介はいつも一人で淋しそうに帰る沙耶を見かねて思い切って声を掛けた。
その「一緒に帰ろう」の一言が沙耶と啓介の距離を縮めて、それ以来、小学校を卒業するまで二人は下校を共にしたし、放課後もよく遊んだ。
その声を掛けるという行為は、後にも先にも啓介が沙耶に見せた唯一の勇気だった。
今の沙耶はあの頃、地味だった小・中学の頃と比べると、どこか色っぽく、大人びている。
啓介はどこか大人の雰囲気を帯びている沙耶を見て、自分だけが子供のまま取り残されたようで情けなくなってしまった。
「あそこに座ろっか」
沙耶ぼ指さす先には木製のベンチがあった。啓介は無言で頷くと二人は並んで腰を下ろした。
「やっと啓ちゃんの連絡先聞けたからね。今日はゆっくり話したかったんだ」
空を見上げながら沙耶が口を開く。
夜空には薄い雲が広がり、淡い月がその雲を透して輝いている。
啓介も一緒になって空を見つめていたが、ある事に気付いて沙耶を見た。
「沙耶……今月誕生日だったろ」
「ふふ、覚えててくれたんだ。そうだよ。今月の二十八日ね。まだ二週間あるけど」
小学五年の時、少ない小遣いで沙耶に誕生日プレゼントを送った事を思い出した。
「私の好きなアニメのキャラクターのバッグだったかなあ。うれしかったな、あの時」
照れくさそうに頭を掻く啓介を沙耶がからかった。
「知ってる? 九月って色々な呼び方があるの。長月、寝覚月、紅葉月、色どり月……。他にもいくつかあるけど私が好きなのは―――青女月」
「せいじょ……月?」
「そう。青い女の月で青女月。青女っていうのは雪とか霜を降らす女神の事なんだって」
「女神……ねぇ」
「今馬鹿にしたでしょ、啓ちゃん。その顔」
隣の沙耶の顔がぐっと啓介に近づく。
「馬鹿になんかしてないよ。でも雪の女神ならなんか冷たいイメージじゃないか?」
「それがいいんじゃない」
「それがいい? 冷たいとか寒いとかが?」
「私ね、自分の事冷たい女って思ってるの」
沙耶は空を見上げたままベンチから立ち上がった。その横顔はどこか淋しげだった。
冷たい女―――。
啓介にはその言葉の意味が分らなかった。小学生の頃の沙耶にはそんなイメージは無かった。それは今、隣にいる今も変わらない。
なぜなら啓介にとって沙耶という存在は、例え手の届かない存在だとしても姿を見かけるだけで、心を暖かくしてくれる存在だからだ。
一つ、冷たい所を上げるとするならば、何年もの間目も合わせてくれなかった事だろうか。
もっともそれは啓介の方にも責任はあるのだが。
「沙耶は……冷たい子なんかじゃないよ。久しぶりに話したけど昔と全然変わってない。それに冷たい奴だったら僕はあの時声を掛けてないよ」
「ありがと。いっつも一人で学校から帰ってたからうれしかったなあ。啓ちゃんが声を掛けてくれた時。あの時から学校行くのが楽しくなったもん」
月を見上げていた沙耶がくるりと振り返る。
あの笑顔―――。
啓介がずっと見たいと思っていたあの笑顔がそこにはあった。声を掛ける勇気が無いために見る事の出来なかったあの笑顔だ。
啓介は自分の喉の渇きに気付いた。
(まただ。なんだろうこの渇きは。今は沙耶と一緒なんだ。沙耶と―――)
と、沙耶の笑顔の中にきらりと光るものがあった。
薄暗い月明かりの中に立つ沙耶の頬に一筋の涙がこぼれていた。




