教室にて
「啓介、おい啓介」
馬原啓介は飛び起きた。3限目の古文の授業中、机に突っ伏して眠っていたらしい。いつの間にか休み時間になっていた。
「山じいのやつ、ずっとお前にらんでたぜ」
クラスメイトの岩崎が笑いながら言う。山じいとは古文の老教師の山中の事だ。生徒から陰でそう呼ばれている。
「油断したなあ。まだ頭が夏休みだな」
啓介も笑った。
馬原啓介は今年の春、熊本県立坪井高校に入学した、どこにでもいるごく普通の高校生である。決して不良でもクラスの中心になるわけでもない、どちらかといえば大人しい部類に入るのかもしれない。かといっていじめの対象となるわけでもない、いたって目立たない存在なのだ。
啓介自身、クラスの人気者になったり、いわゆる不良と呼ばれる連中とつるんだりも当然ない。ただただ、これからの人生も静かに、平穏に暮らしていきたいと本能的にそう動いているのだ。
「最近ボーっとしてるな。ゲームのしすぎだろ」
岩崎が言う。眼鏡をかけていかにも真面目そうな岩崎は啓介にとって、入学してはじめてできた友達だった。傍からみれば岩崎は俗に言う、オタクである。
そんなことは啓介にとってどうでもよかった。友は友である。逆にゲームやアニメの知識が豊富な岩崎を尊敬すらしていた。
「かもなぁ……」
啓介は気のない素振りで答えた。実際そんなことはなかったのだ。夏休みが明け、一週間が過ぎたが何も身に入らないのが本当のところなのだ。
「おふたりさん」
啓介の後ろから声がした。
「お、もっちゃん。その顔は何か仕入れてきたな」
岩崎が親しげに答えた。
隣のクラス、一年A組の坂本がニヤニヤしながらやってきた。小柄でいつもニヤけた顔をしている。岩崎とは中学校が同じで、岩崎は彼の事をもっちゃんと呼ぶ。啓介が岩崎と親しくなると、クラスこそ違うが自然とこの坂本とも仲良くなっていた。
「今日はどんなゴシップだい、坂本君」
啓介は坂本君と呼ぶ。
この坂本は、何より校内の噂話が好きなのだ。どこから拾ってくるのか、3年のあの女生徒は尻が軽いだの、あの先生はカツラだとか、あのヤンキーは実は中学時代はいじめられっ子だったとか本当かどうか怪しい話ばかり持ってくるのだ。実際岩崎によると中学時代にこの噂好きが災いして、恐い先輩連中に囲まれてしまった事もあるらしい。それでも懲りないのがこの男の性格なのだろう。
「へへ、今日は二つも入ったぜ」
得意げに坂本が答えた。啓介は坂本の事を嫌いではないが彼のゴシップネタはいつも話半分に聞いていた。その手の話があまり好きではないのだ。
平穏に暮らしたい啓介にとって曖昧な情報を口にする事でいらないトラブルに巻き込まれたりするのはまっぴらなのだ。
だから坂本から入ってきた噂話を他の友人に話す事もまずなかった。
「C組に転校生きただろ。やばいよ、アイツ」
坂本がニヤつく。
確かに来た。二学期のはじめに。クラスの女子はイケメン転校生が来たと騒いでいるのは記憶に新しい。高校で転校生も珍しいと思ったが、啓介のその時の感想はそれだけだった。
岩崎が呆れた顔で言った。
「二、三年の女子でも話題らしいな、イケメン転校生。何だよ、ヤンキーにシメられでもしたか」
「おしいね。まだシメられてないよ。今日明日がヤマだね」
何がヤマなんだ、啓介はそう思ったが口には出さなかった。
女子に人気な転校生が気に食わない、だから不良連中が適当に因縁つけて呼び出す。バカバカしい。啓介は大きく伸びをした。どうでもいいのだ。
「転校生、何て言ったかな。珍しい名前だったな。確か……瓜生だったかな。アイツもアイツで変なんだよ」
坂本のニヤけた顔が急に曇った。あまりの顔芸に啓介は吹き出しそうになった。
「休み時間とか昼休み、放課後まで校舎中をうろついてるらしいんだ。なにか物色してるみたいにさ。二、三年のクラスまでだぜ。おかしいだろ?」
ふうん、と啓介は生返事をする。
なるほど、それで上級生が躍起になっているのかと啓介は納得した。自分たちのテリトリーに、ついこの間転校してきた下級生がまるで女子を物色するかの如くうろついてるのが気に食わないのだろう。しかもそれが顔がかっこいいときてる。
くだらない。たった一、二年早く産まれた人間がえらそうに威張り散らすのが学校という場所なのだ、と啓介は思っている。不良と呼ばれる人種は自分がいかに強いか、悪い人間かというのを鼓舞したがるのだ。
そういう人種を啓介は見下していた。もちろんそんな連中に刃向かう腕力も度胸もないので内心では、だ。
「それはご愁傷さまだな。転入早々目をつけられたわけか。
入学すぐに一年も何人かやられてたな。大人しくしてた方が身のためだよ。で、もうひとつは?」
岩崎が言う。
三人の中では岩崎が一番喧嘩に縁遠いタイプなのだ。
「こっちはすごいぜ。誰にも言うなよ」
坂本の決まり文句だ。誰にも言うなよという人間に限って自らいろんな所で言いふらしているものだ。
「うちのクラス、A組の大久保沙耶って知ってるか」
啓介はドキッとした。岩崎は知らんよと言ったが啓介は違った。知ってるのである。知ってるも何も彼女は―――。
その時、始業のベルが鳴った。続きは昼休みにと三人は解散した。
その後の授業に啓介は今まで以上に身が入らなかった。色々な事が頭をよぎっている。
(自分しか知らないと思っていた事がもう広まっているのか。俺が見たあの光景はやはりそういう事なのか)
啓介は知っているのだ、その噂を。いや噂を知っているというより見てしまったのだ。
できれば坂本の口からその話を聞く前に逃げ出したかったが、昼休みに入ってすぐその噂好きな男は鼻歌交じりで弁当片手にやってきたのだ。
三人が教室の隅で昼食をとっていると必然的に話題は例の噂の話になっていった。
「それで、その大久保だっけ。そいつがどうしたんだよ」
岩崎は興味津々だ。
坂本は箸を置き、声のトーンを少し落としてニヤついた顔をいっそう崩した。
その顔を啓介は初めて憎たらしく感じた。
「そうそう、その大久保。どうも生物の竹本と付き合ってるって話よ。禁断の恋ってやつよ」
「まじかよ」
興奮した岩崎の口から米粒が飛んだ。
この年代の男子にとってこの手の話はたまらなくおいしいのだ。それが嘘でも事実でもどうでもよく、その噂自体が楽しいものなのだろう。
(やっぱり。ばれてしまってる)
啓介は予感が当たったことに絶望した。
「しっ。誰にも言うなよ。学校にバレでもしたらえらい騒ぎだぜ」
そんなこと言ってもこのおしゃべりな男が知ってしまったのだ。広まるのも時間の問題だろう。
その後も坂本と岩崎は教師とその生徒の禁断の恋についてああでもない、こうでもないと妄想話を繰り返した。女の体に触った事もないであろう二人のその幼稚な話を啓介は投げやりな相槌を打ちながら聞いていた。




