青女月の夜に/2
どこからか鈴虫の鳴き声が聞こえてくる。
残暑の生温い風も今の啓介には心地よかった。
通りはまだまだ交通量が多い。その中を啓介は自転車を急いで走らせた。
江津湖は啓介の家から自転車で五分程の距離だが、今夜はその距離がえらく遠くに感じた。
十六年間生きてきたがこんな気持ちになったのは初めての事だ。はやる気持ちを押さえられない。
ずいぶん長い間話してなかった沙耶にまさか呼び出された。しかも向こうから。ずっと遠くからその姿を見るだけだったのが一つのメールでその距離がずっと近くになったと感じた。
沙耶との約束の場所は啓介のいつも行くお気に入りの場所だった。
湖の入り口に着き、自転車を降りて辺りを見回すが沙耶の姿はない。まだ来てないようだ。
夜の江津湖はその遊歩道に街灯がポツポツと明かりを灯している。
薄明かりに照らされた湖面は、穏やかに美しい湧水を湖の中心へと運んでいる。まるで湖のまわりだけが現実世界から切り取られ、そこだけ別の空間にあるようだった。
啓介はいつもの様に一人湖面を眺めて沙耶が現れるのを待った。
この好意を持つ女性を待つという時間が啓介はこそばゆくもあった。自分には到底縁のない事だと割り切って生きてきた啓介にとってなんとも言えない幸福感だった。
携帯電話を開き、時間を確認する。啓介がここへついて十分が過ぎようとしていた。
(どうしたんだろう)
待つという幸福感が今度は本当に現れるのかという不安感へと変わって行く。夜の闇がその不安をよりいっそう煽ってくる。
沙耶の家は啓介の家から徒歩で七、八分程の距離にある。
そこから歩いて江津湖まで来るなら二十分くらいだろうか。自転車なら十分あれば着く。
啓介は頭の中で色々なパターンでここに来るまでの時間を計算していた。
(……まあもう着くだろう)
計算した結果、出た答えである。
こちらからメールしようかとも思ったが、急かすようで格好悪いという理由でそれは却下した。
人の気配を感じるたびに振り返り、辺りを見回す。
傍から見れば妙な男である。こんな暗がりで挙動不審な男がいれば警官に職務質問されてもおかしくない。
時間が経つにつれ、それほど啓介は落ち着きがなくなっていった。
無理もない、これまで女子に見向きもされなかった男だ。一杯食わされて、本当にノコノコやって来たと茂みの中で笑われてるんじゃないかと心配にもなってくる。モテた事が無いという事実が啓介を疑り深い性格にするのだ。
乗って来た自転車を遊歩道のわきに生えている木に立てかけ、啓介は湖の中心へと歩き出した。どうもじっとしていられない。
湖の流れに沿ってそれを追うようにしてゆっくりと歩いて行く。
美しい水の流れは辺りの光を反射させ、キラキラと輝いている。
(今でもホタルは見れるのかなあ……)
春先にはごくわずかだが湖のわきにはホタルが飛び交う。小さい頃は両親に連れられてそれを見に来る事もあった。
子供の頃の記憶を思い返していると、ふと啓介は立ち止まった。
夏休みの終わりに見たあの光景を思い出したのだ。
沙耶とあの生物教師竹本が二人並んで歩いている光景。
瓜生と不良に囲まれたり、思わぬ沙耶からの誘いに舞い上がっていてすっかりその事を忘れていた。それほど今日はいろんな事が起きた一日だった。
もしかするとあのとても認めたくない光景を、自然と記憶の奥底に押し込めていたのかもしれない。
(……どうなんだろうなあ、実際……)
嫌な事を思い出したと啓介はため息をついた。
浮かれていたが、沙耶は付き合っている男がいるかもしれないのだ。それも学校の教師と。
噂話にしか過ぎなかったが、啓介は実際に二人が一緒に歩いているのを目撃している。それは噂が限りなく真実に近いと確信せざるを得ない光景だった。
それならなぜ沙耶は自分を呼び出したりしたんだろうか。
夜の風に吹かれて啓介の頭はだんだんと冷静になってきた。
(なに舞い上がってたんだ、僕は。沙耶には彼氏がいるじゃないか。もしかするとその事を話すために……)
幸福感は不安へと変わり、今度は絶望へと追いやった。一人であれこれ考えて忙しい男である。
「啓ちゃん」
暗がりで突然声を掛けられ、啓介は心臓が飛び出しそうになった。
振り返るとそこには沙耶が立っていた。
街灯の薄明かりに照らされた沙耶は長い髪を下ろし、真っ白なTシャツとスカートという出で立ちだった。
沙耶と竹本の関係を思い出して絶望にいた啓介の心は再び舞い上がった。胸が高鳴る。
こちらを見ている沙耶の瞳をしっかりと見返せない。
「遅くなってごめんね」
そう微笑む沙耶はいつも昼間に学校で見る沙耶と違って、どこか色気の漂う、妖艶な雰囲気に包まれていた。




