青女月の夜に
家に帰り着くなり啓介は二階の自分の部屋のベッドに横になった。
いつもならなら帰ってくればテレビゲームの電源を入れたり漫画でも手に取る。それが啓介の日常なのだ。
それが今日はゲームをする気にもならない。
ベッドに寝転んでぼーっと天井の照明を眺めている。
「とんでもない日だった」
殴られた腹をさすりながら公園での出来事を思い出す。
あの痛みがまた戻ってくる。
一瞬呼吸が困難になり、目の前が真っ白になったあの感覚。
痛みは後からやって来て胃液が逆流してくるあの口の中の不愉快なあの味。
もう二度と味わいたくなかった。
あの瓜生という男に関わるとまたあんな目に遭うのかもしれない。
嫌だ。もう殴られるのは御免だ。
そう考えるが、啓介はあの瓜生という男に憧れにも似た感情を抱いていた。
あれだけ大人数を目の前にして少しも怯まないあの度胸。
一瞬にして学校の番長をねじ伏せる強さ。
瓜生健は啓介が持っていない者を持っている。
まるで子供が特撮ヒーローに憧れる、そんな感情だった。
ベッドに仰向けになったまま自分の両手を天井に掲げた。
(僕の強さ……何だろう。こんな臆病な僕に強さなんかあるんだろうか……)
別れ際、瓜生が自分に行った一言がひっ掛っていた。
からかわれたのか、とも啓介は思った。
小さい頃から自然と争いを避けて育ってきたし、自分が臆病者だという事は自覚してきたからだ。
だがあの瓜生の真剣な眼差しが脳裏に焼き付いて離れない。
一体どう意味だったんだろうか……。
クラスでも大人しい啓介はクラスの中心になる人気者や、不良に憧れた時期もあった。それにクラスの女子に積極的に話しかけようともした。
だが、やはり性格なのだろう、一歩踏み出す勇気は啓介に無かった。
いつの頃からか憧れなどは彼の心から影を潜め、なるべく目立たない生き方を選んで生活してきた。
時計の針は八時を回っている。
馬原家は両親が共働きで帰りが遅く、夕飯はいつも八時を過ぎる。一人っ子の啓介は子供の頃からそれが当たり前だった。
一階の台所では十分程前に帰って来た母親のまな板を叩く音が聞こえる。
ベッドに横になっていた啓介はいつの間にかウトウトしていた。
意識が薄くなっていたところへ携帯電話の着信音がけたたましく鳴った。
啓介は驚いてベッドから飛び起きた。
友達もそれほど多くない啓介の携帯電話が鳴るのは珍しい。しかもそれはメールが来た事を知らせる着信音だった。
岩崎だろうか、啓介はまずそう思った。
ゲームやパソコンなどの情報や質問などを岩崎は聞いてくる事がたまにあるからだ。
ボーっとする頭を掻きながらゆっくりとテーブルの上に置かれた携帯電話に手を伸ばす。
その液晶画面に映し出されたメール着信通知の名前を見て啓介の眠気は一瞬で吹き飛んだ。
メールは大久保沙耶からだった。
そういえば今日、沙耶と連絡先の交換した事を思い出した。
瓜生との一件でそんな啓介にとって喜ばしい事件の方はすっかり忘れてしまっていたのである。
思いもよらない相手からのメールに啓介の頭に一気に血が上った。
はやる気持ちを押さえながら一息ついて沙耶からのメールを開く。
こんばんわ
今、時間あるかな
ちょっと散歩しない?
短い文章だったがそのメールを読んだ啓介の体中の血が一気に駆け巡り始めた。
(い、今から?)
思わぬ沙耶からのデートの誘い、啓介にとってこれはデートの誘いなのだ、に戸惑いつつも何と返事をしようか悩み始める。
もちろん答えはYesなのだが、何といっても色恋に全くと言っていいほど疎い啓介にとって、返事一つ返すのも一大事なのだ。一体何と返事するのが正解なのか、頭を抱えた。
「啓介ー、ごはんよー」
一階から母親が呼んでいる。夕飯の支度ができたようだ。
だが啓介はそれどころじゃなかった。とりあえず沙耶に返事をしなければ、ドキドキしながら一文字づつゆっくり携帯電話のボタンを押していく。
いいよ。
どこに行く?
たったそれだけ入力すると震える指で送信ボタンを押した。
(ちょっと素っ気なかったかな……)
もっと文字を多くした方がよかったかな、などと少し後悔しながら出かけるための支度を始めた。帰ってすぐベッドに横になったからまだ制服のままだった。
するとすぐに着信音がなった。
あわてて携帯電話を手に取る。早い。メールは沙耶からだ。
じゃあ江津湖の入り口で待ってるね。
電車通りから入ったとこ。
啓介の胸は高鳴る。
急いで着替えを済ますと、慌てて階段を駆け降りた。
「ちょっと出てくる」
食卓に夕飯を並べていた母親が面喰う。父親の帰りはまだのようだ。
「ちょっとって……こんな時間にどこ行くのよ? 夕飯は?」
「帰ってから食べるよ」
「……もう、気をつけなさいよ……」
そんな母親の言葉を聞き終える前に啓介は玄関から飛び出した。
男子高校生の親ともなるとこんなものなのだろう、たいして心配もしていない。
啓介が何か悪さをするような度胸がないことも分っている。
外に出るとうっすらと月が出ていた。
九月も半ばに入って残暑も少し和らいできた。
生温い九月の風に吹かれながら啓介は自転車にまたがり、沙耶の待つ夜の江津湖へと急いだ。




