闇の中で/2
「だ、誰なんだ君は……」
さっきは驚きのあまり大声で尋ねた竹本だが、今度は蚊の羽音の様な声だった。
男は入り口に立ったまま動かない。
生物準備室には入り口が二つある。一つは廊下から準備室に入るドア、もう一つは生物室へとつながるドアである。
男は生物室とつながるドアから入ってきてそこに立っていた。
外は陽が落ち暗くなっていて、部屋は闇に包まれている。
多少闇に目が慣れてきているが、男はパーカーのフードを目深に被り、うつむいているから顔ははっきり見えない。
見えるのは男の口元だけで、少しほくそ笑んでいる様に見える。
しばらく沈黙の時間が続いた。
心臓の鼓動は驚きと不気味な男に対する恐怖で激しさを増していた。
予期せぬ訪問者に戸惑いつつも何も答えないこの男に竹本はだんだんと腹が立ってきた。
「き、君はここの生徒かね。クラスと名前を言いなさい。そして早く帰りたまえ」
聞く声は小さい。足の震えも止まらない。
「……」
返事はない。
知らない男と暗い密室で二人きりというこの状況から一刻も早く脱出しなくてはと本能が急かし始めた。
竹本は男を無視して自分のカバンに書類を詰め込み、帰り支度を始めた。
「私は帰るよ。鍵を閉めるから君も……」
「……アレが欲しいそうですね……」
竹本は再びドキッとした。
「な、何の話かね。ア、アレとは何の事だい?」
とぼけて見せたが動揺は隠せない。竹本の額から汗が吹き出してきた。
「力が欲しいんでしょ? 不良どもを見返すための。いや、不良だけじゃない。これまであんたの人生を、あなたそのものを蔑んできた連中を見返すための力をです。俺は何でも知ってるんですよ。あなたが欲しがってる物も、それを誰に聞いたかも……」
「な、何を言ってるんだ君は。何の話をしてるのか私にはさっぱり……」
「あんたがやりたかった事をさっき俺が代わりにやっておきましたよ。少々人数が多かったですけど俺にとっては何のことはない、あんな不良ども。その力をあんたは欲しがってる。違いますか?」
「うう……」
「困るんですよねぇ、勝手なことされると」
男の口調は急に激しくなった。
竹本のシャツは大量の汗で体にひっついてくる。
「あまり目立ちたくないんですよ、俺達は。いや、目立っちゃいけないんです。分りますか?」
今度は竹本が黙りこくっている。
「力を欲しがるのは構わない。だが目立ってもらっては困るんです。あんたの勝手な行動が俺の身も危険にさらす可能性が出てくるんですよ」
男は顔を上げないまま一歩前に出た。
竹本は気押されるように後ずさる。
「ま、待ってくれ。私が力を欲しがる事と君とどう関係があるんだね? それに俺達と言ったね。一体何なんだ君は?」
声を震わせながら竹本が聞いた。大の大人が今にも泣きだしそうな勢いだ。
男はパーカーのポケットに両手を突っ込み、ふぅっとため息をついた。
「あんたはアイツに何を聞いたんです?」
「な、何をって……。ち、力が欲しいんだろう、と聞かれたから私は……」
「あんたは俺達側に来る覚悟はありますか。知ってしまったんでしょう、この世界の事を。つまらない復讐心のために知らなくてもいい事をあんたは知ってしまったわけだ」
「つ、つまらないとは何だ」
竹本が珍しく声を荒げた。普段は虫も殺さぬ様な大人しい男なのだ。
「お前には分からんだろう、私の苦しみが。四十年間もの間、誰からも相手にされず、訳もなく目の敵にされいじめられ続けてきた苦しみが。もう我慢できないんだよ。そんな時アイツに力が欲しいかと持ちかけられた。当然答えはイエスだ。その力があれば私の人生は変わるんだよ!」
興奮して息が荒くなる。
コツコツと再び遠くから足音が聞こえた。
竹本は体の震えを押さえながらその音が通り過ぎるのを待った。
部屋は蒸し暑さで空気が淀んでいる様だった。
廊下の足音が去ったのを確認して男は笑う。
「分りたくもないね。あんたの苦しみなんか知った事じゃない。俺には毛ほども関係ないからね。俺は確認に来たんだ。アイツからアレを欲しがってる馬鹿がいるって聞いてね。勝手にベラベラしゃべりやがって」
男は苛立っている様子で、どんっと竹本がさっきまで座っていた椅子に腰を下ろした。
まるで竹本の存在を無視するかのように椅子に腰かけ、窓の外を眺めている。
どうにかフードに隠れた顔をのぞいてやろうと竹本は試みたがはっきりとは見えない。声から察するにまだ若い男の様だった。
「アイツに許可は出しとく。あんたにアレを渡してもいいってね。ただししばらくは大人しくしとけ。いいな? もう一度言う、大人しくしとくんだ。力試したけりゃどっか遠いとこでやれ。あんたがやった練習で鼠どもが動き出してるんだよ」
「鼠?」
「こっちの話だ。まあいいや。妙な事し出したらアイツもあんたも―――」
すくっと椅子から立ち上がり男は竹本の方に顔を向けた。
「―――殺す」
竹本はゾッとした。
殺すという言葉もそうだが、何よりフードからちらりと覗いた男の目が一瞬爬虫類、あるいは猫の目の様に瞳孔が縦に細長くなっている様に見えたのだ。
「じゃ、そういう事だから」
そういうと男は竹本に背を向け入ってきたドアに歩き出した。
「あ、あんた……何者だ」
恐怖を押し殺し竹本は思い切って尋ねた。
男は立ち止まり振り向くことなく答えた。
「……アイツにアレをやったのが俺だよ」
再び部屋に一人になった竹本は汗と震えが止まらないまま、しばらくそこに立ち尽くしていた。




