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闇の中で

 陽も落ち、薄暗い闇が辺りを包みこもうとしていた。

 部活動の生徒たちもその日の練習を終え汗を拭い、それぞれがやがて帰宅の途に就こうとしている。

 部室で談笑するもの、道具の片付けやグラウンドの整備をするもの、顧問に個別に指導をうけるもの、様々である。

 校舎に灯る明かりもほとんどなく、昼間のにぎわいも今は無く、静寂だけがコンクリートの塊を覆ってしまおうとしていた。

 男は小部屋でほくそ笑んでいた。

 明かりもつけず、薄暗い部屋の中で一人笑いをこらえるのに必死だった。

 校舎にはほとんど誰も残っていないのだから声を出して大笑いしてやってもいいのだが彼の性質上、このような陰湿な笑いになってしまうのだった。

(昨日に続いて今日もまたあの忌々しい、学校の屑どもが……。暴力行為や威圧的な態度で校内を我がもの顔で闊歩するあの社会の汚物どもがねじ伏せられた。それも自分たちが得意とする腕力で)

 思い出せば思い出すほど笑いが込み上げてくる。

 机の上に顔を伏せ、くくくと背中が揺れている。

 坪井高校の生物教師、竹本純一は常に不良たちに苦渋を舐めさせられて生活していた。

 授業中の居眠りをはじめ、携帯電話で話し始めたかと思えば、平気で弁当を食べ始め、教室から出て行く。

 はじめのうちは注意をしていたが、そんなことすれば当然の如く睨みつけられ時には胸倉を掴まれたりもした。

 それを見た他の生徒も自然と竹本に対して高圧的な態度を取り出す。彼の授業は段々と無秩序なものとなっていた。

 そうなってくると竹本の華奢な猫背の体はどんどん丸くなっていき、廊下を歩く姿も小さく小さくなっていった。

 内気な性格で決して自分を出そうとしない性格の竹本は生徒だけでなく、同僚の教師からも疎まれ、彼は常に孤独だった。

 そんな竹本にとって不良たちが公園で敗北したという一報は、荒んだ彼の心を弾ませるのに充分だった。

(まさに天罰だ。神による天罰だ。神は真面目に生きている者の味方だ。いい気味だ。大山をはじめとするあの屑ども、図に乗るからこうなる)

 両手で顔を覆い、天を仰いで竹本は笑い続けた。

(惜しいのはもっと、もっとだった。病院送りになるくらいもっと痛めつければよかったのだ)

 すくっと立ち上がり暗がりの中で窓に目をやる。外には街灯の小さな明かりが見えた。

(もうすぐ。もうすぐ私にも力が手に入る。あの屑どもに罰が与えられたのは喜ばしいが、それは私の役目だった。私の手で奴らに天罰を与えてやりたかった。それだけが残念だ)

 遠くから足音が聞こえてきた。廊下を歩く音だ。

 竹本は小部屋でじっと息を潜めた。

 彼のいる部屋は校舎の三階、生物室の隣、生物準備室。そこには昆虫の標本や爬虫類のホルマリン漬けなど授業に使われる道具が保管されている。

 生物科の教師は竹本一人だから職員室にいるよりもこの準備室という小部屋に一人籠もっている事が多い。それにこの校舎の三階は学級のクラスも無く、化学室や視聴覚室など特別教室がほとんどだから放課後など人気も少ない。

 竹本にとってはさほど広くはないが居心地のよい絶好の場所なのである。

 足音は竹本のいる部屋の前を通り過ぎ、遠くなっていった。

 この学校の、しかも自分の教科の教室にいるのだから別に隠れる必要もないのだが、竹本の極力人と関わりたくな性格からそうしてしまうのだろう。

 足音も消え、竹本は自分の携帯電話を手に取った。着信はおろかメールなど当然ない。

(それにしてもまだか。あれから一カ月経つというのに。一体いつになったらアレをくれるんだ。約束のアレを)

 急に苛立ち始めた竹本は携帯電話を持ったまま部屋をうろつき始めた。

(もっと早くアレをくれたならあの屑どもは私が処罰したのだ。言われた通り練習も繰り返した。かなり危険な練習だった。それなのに……)

 狭い部屋を行ったり来たりしている様はまるで動物園の熊である。

 気の抜けたようにドカッと椅子に腰を下ろし、何かを思い返すように天井を見つめた。

(アレさえ手に入れば私の人生は変わる。これまでの人に見下され、蔑まれ続けた私の人生……。アレの力が大きく私を変えてくれるはずだ。今は醜いさなぎの様な私を、アレが美しく強い蝶に変えてくれる)

 天井から棚に並べられた蝶の標本に視線を落とした。

(あの日、あいつから話を聞いた時は耳を疑ったが、実際に目の当たりにしたあの瞬間から私の新たな人生は動き出した。早く、一秒でも早くアレを手に入れなければ)

 暗闇の中に一人身を置き、竹本は自分の世界に陶酔しきっていた。

「どうしました?」

 竹本は驚いて椅子から立ち上がった。余りの勢いに椅子は倒れ、それまでの静けさの中にがしゃんと激しい音が響き渡った。

「だ、誰だ」

 竹本の心臓の音がこれまで聞いた事のないくらいの大きさで自分自身の耳に響く。

 その闇に包まれた狭い小部屋の入り口にいつの間にか男が一人、こちらを向いて立っていた。




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