署内にて
「セミも減ったなあ」
男はぽつりとつぶやいた。
誰に語りかけるでもない、男は一人で水面を見つめていた。
まだ暑い9月の初旬、その静かに流れる透き通った湧き水は心なしか残暑を和らげてくれているようだった。
湖沿いの丸太の柵に腰掛け、男はどれだけの時間をそこですごしただろうか。ふうっと深いため息をつき、蒸し暑さで湿ったあごの下をぬぐった。陽は傾いてきている。
もうなにもかもがどうでもよくなった。このまま家にも帰らずどこか遠くへ行けたらどんなにいいだろうか。
ゆらゆらと手を振るように揺れる水草を眺めていると、思い出したくもないあの光景が甦る。知りたくなかった、信じられないあの光景が。忘れてしまいたい。男はそれを振り払うかのように頭を振った。
いっそこの冷たい水に飛び込んで頭を冷やすか、そんなことも考えた。
西の空には薄黒い厚い雲が広がってきている。夕立がきそうだ。
男は重い腰を上げた。現実の世界に戻るのだ。
柵から軽く飛び降り、振り返った男の目に飛び込んできたのは一人の男の子だった。
酷く泣いている。泣きたい気持ちなら男も一緒だった。
普段なら気にも留めなかっただろう。だがその日は違った。
「どうしたんだい」
少年は声をかけた。返事はない。男の子は泣いている。
「おうちはどこ? おかあさんは?」
男の子は首を振る。母親は近くにいないようだ。
男は困った。声をかけてしまった手前、このままほったらかしにして帰るわけにもいかない。男がいるこの場所は湖の端で決して人通りが多い方ではないのだ。
(近くに交番があったな)
ふと男の子の足元に目をやった。
…血だ。
泣いている理由がわかった。湖にある公園で転びでもしてケガをしたのだろう。
膝から血が出ている。
トクン……。
男はその膝をつたう赤い液体を見ている。
赤い、赤い、あかい……。
(なんだ……)
少しずつ、少しずつ、鼓動が速くなるのを感じた。
男がいまだ感じた事のない渇き気付くまでそう時間はかからなかった。
そして男は―――――喉を鳴らした。
◆
「青木さん」
熊本東警察署捜査一課の刑事、青木陽一はおぼつかない手つきでパソコンに向かっていた。
「青木さん」
集中して仕事をしてる時に限って邪魔が入る。なんでこうも間が悪い奴がいるんだろう。青木は不思議でしょうがない。ほんの5分前にやっとパソコンにむかってやる気になったばかりなのに。神様が慣れないデスクワークなんかするなと言ってる様だ。
「青木さん、署長が呼んでるそうですよ」
俺を呼ぶあいつのせいでこの書類の提出は遅れる。遅れるのはあいつのせいだ、俺は仕事をする気になっていたというのに。青木は面倒くさそうに自分を呼ぶ方に体を向けた。
「うるせぇな、聞こえてるよ。何回も呼ぶんじゃ……なんだと?」
青木は思わず聞き返した。
「すぐ署長室に行けって、課長が」
後輩の木下が半ばニヤつきながら青木を見ている。
「なんでだよ。この前の事件の報告書なら今やってるとこだよ」
「僕は知りませんよ。直接言ってくださいよ」
青木は先日市内で起きた殺人事件の報告書を作っている途中だった。彼は一つの事件が片付くとブスンと充電が切れてしまい、次の動きまで時間がかかってしまう困った性質の持ち主なのだ。だから早く書類を出せと課長から尻を叩かれていたのは確かだが、何も署長に呼ばれることはないだろう。一体何事だ。
「また何かやったんですか?」
青木が椅子から腰をあげかけているところにまた木下が声をかける。
「また、とはなんだこの野郎。何もしてねぇよ。酒も全然飲んでねぇ」
木下が冗談ですよ、と笑う。
立ち上がってちらっと課長のデスクに目をやった。
内川課長はコーヒー片手に青木を見ていた。行け、と言わんばかりにドアの方を指さしている。その目は真剣そのものだった。
青木はただ事ではない予感がした。しかし本人に心当たりはない。だからそんなビクつく必要もないだろう、堂々と行ってやろう、青木は自分に言い聞かせた。
「報告書は僕やっときます」
木下がパソコンを指さす。すると内川が、
「木下ぁ、お前も」
青木はぎょっとしている木下の襟首をつかんで道連れができたと笑いながら捜査一課を後にした。
「課長、何事です?」
二人が出て行ったドアを見ながら他の同僚の刑事が問いかけた。
「さあな……」
首をかしげる刑事をよそに内川は、言葉を濁しながらカップのコーヒーを一気に飲み干した。
「なんで僕まで一緒なんだろう」
足取りの重い木下が言う。
「なんで悪い方にしか考えねぇんだよ。事件解決のご褒美かもしれねぇだろうが」
青木は励ますように言った。だが本人はそんなことこれっぽっちも思っていない。
青木は2年前、かなり酒に溺れていた時期があった。刑事という仕事のストレス、家庭でのいざこざで精神的に参ってしまい酒という秘薬から逃れられなくなっていた。
そして酔った挙句の喧嘩や二日酔いでの捜査など、決して大事には至らなかったものの度々トラブルを起こして署長から直接注意を受けていた。
そんな自分に嫌気がさし、刑事を辞めようとまで思っていた青木を救ったのが捜査一課課長の内川だった。
ある日、内川は嫁と子供も出て行った青木の家に乗り込み、昼間から酒を飲んでいびきをかいて寝ていた青木を叩き起こし、そして―――何も言わず顔面を思い切り殴りつけたのだ。
もともと7年前、捜査一課にやってきた青木の刑事としての才能を内川は買っていた。ここで刑事を辞めさせるのは惜しい、眼を覚まさせたい、そういう気持ちが内川をそういう行動に出させたのだろう。
その内川の鉄拳制裁によって青木も改心し、それ以来酒を断っている。
もともとけんかっ早い青木も内川には頭が上がらない。
そういうこともあって署長室にはいい思い出はないのだ。
「最近は青木さんもまじめに勤務してるんですけどねぇ」
また木下が皮肉った。この男はひとこと多いのだ。
「まったくだ」
さすがの青木も苦笑いした。
2階の西側の捜査一課から1階中央の署長室の前まで二人はやってきた。木下が青木に目をやると青木はあごで扉を示す。お前がノックしろということらしい。
「ずるいなあ」
木下がふぅと深呼吸して扉を叩く。
「捜査一課の木下と青木です」
青木は思わず笑いそうになってしまった。お調子者の木下が妙に緊張しているのがやけにおかしかった。
「どうぞ」
署長の低い声が部屋の中から聞こえた。
「失礼します」
今度は青木が扉を開き、先に署長室へと入って行った。
後から入った木下が静かに扉を閉めた。
「急に呼びだしてすまなかったね」
署長室に入ってすぐ正面に梅田署長は座っていた。
ふと応接用のソファーに男が一人座っているのに気付いた。署の人間ではなさそうだ。白髪混じりでスーツを着たその男は青木達には目もくれずどかっとソファーに腰掛けてタバコを吸っている。
「どういったご用件でしょうか」
白髪の男のその態度がきになりつつもそれを抑えながら青木は尋ねた。
「二人とも忙しいだろうから単刀直入に言おう。ここ最近江津湖周辺で変質者が出没しているのをしっているかね」
江津湖とは熊本市内にある湖のことである。湧水が流れ、市民の憩いの場となっている。青木は初耳だった。
「二人にその件の捜査を頼みたい」
「え?」
青木と木下が同時に聞き返した。まさか署長自らそんなことを言ってくるとは思わなかったからだ。白髪の男がタバコの火をもみ消した。
その態度が不快だったが気にも留めないそぶりで
「捜査一課が出張る様な事件なのでしょうか、それは」
青木は梅田に聞く。白髪の男が鼻で笑った様な気がしたがそちらには目もくれない。
梅田はテーブルの上に赤いファイルを静かに置いた。
「うむ。詳しくは捜査資料を読んでもらいたい。変質者出没自体は珍しい話でもないかもしれんが……」
一瞬の間があった。次の言葉を言い淀んでいるようだ。
「……大事になる前に君たちに捜査してもらいたいんだよ」
まるでその変質者とやらが大事件を引き起こすかのような言い方だった。
ふたりは了解しました、と一礼した。梅田は続ける。
「それとこの件は公にしたくないのだ。マスコミにも知られたくない」
カチリとライターの音がする。男がタバコに火を点けた。青木は意地でもその男を見たくなかった。マスコミは駄目でもこの男なら構わないのか。
「そこで…容疑者とおぼしき人物が浮かんできたらすぐに報告してほしい。いいかね、決して君たちだけで踏み込みすぎないよう頼む」
梅田の顔が一瞬険しくなった。普段あまり感情を表に出さない男なのだ。青木が注意を受けた時も穏やか過ぎてこっちが拍子抜けしたほどだった。
(なにかあるな)
青木はそう感じたが何も聞き返さず、わかりました、とだけ答えた。木下は棒の様に突っ立っているだけだ。
よろしく頼むと梅田が言うとファイルを手に取り、二人は署長室を後にした。結局、白髪の男が何者かは語られなかった。
「どうします?」
ずっと黙ったままだった木下が口を開いた。
「上からの命令だ。従うしかねぇだろ」
青木は事件の捜査よりもあの白髪の男の方が気になっていた。熊本県警本部や本庁の人間なら紹介のひとつくらいあってもおかしくない。この事件の関係者ならなおさらだ。少なくとも署長室で偉そうにタバコを吸えるくらいの人物だ、ということか…。
「とりあえず現場に行ってみるか。今何時だ」
やがて昼飯ですよと木下が腹をさすりながら言う。
捜査一課に戻ると内川と目が合った。内川はコクリと頷いた。署長からあらかじめこの件について聞いていたのか。
「外で食うぞ」
そう言うと青木は木下を連れ、江津湖へと向かった。
二人の出て行った扉を内川はしばらく見つめていた。




