期待を裏切らない吾輩
吾輩は蝶である。
華麗なる存在らしい。
らしい、というのは、吾輩自身が毎朝水面をのぞきこんで確認したわけではないからである。もっとも、花から花へと渡るたびに、人も鳥も、ときに風までが、いかにも美しいものを見たような顔をする。そこまで世間が言うのであれば、たぶんそうなのだろう。吾輩としては、ただ生きているだけなのだが。
幼きころ、吾輩は芋虫であった。
あのころは這うことが仕事で、食べることが務めで、葉の一枚にもずいぶん世話になった。世話になった草木は、いま思えばどれも立派である。根を張り、季節を耐え、黙って吾輩を養ってくれた。人はああいうものを愛で、大事に育て、ときに手をかけて整えもするらしい。なるほど花は花で、華麗なる存在なのであろう。
しかし、吾輩は違う。
守られて咲くのではない。
囲われて整えられるのでもない。
吾輩は飛ぶ。
飛んで、自ら花を選ぶ。
その自由な姿が華麗だと言われるのなら、まあ否定はすまい。なにしろ、こちらとしても見苦しいよりは華麗なほうが都合がよい。
もっとも、華麗なる存在にも油断はある。
先日など、少々危ない目にあった。
あの日は、たいへん香りの強い花があった。
甘く、濃く、いかにもこちらを歓迎しているような匂いである。あれほど分かりやすく誘ってくる以上、相当の上物に違いないと吾輩は見た。花の側から、こちらへ来いと言っているも同然だったのだから、近づくのはむしろ礼儀である。
吾輩はふわりと進路を変えた。
きわめて優雅に。
いささかも慌てず、いささかも欲を見せず、あくまで偶然その場を通りかかった華麗なる者として。
ところが、どうも様子がおかしい。
匂いが強すぎるのである。
甘い。
とにかく甘い。
花というものは本来もう少し奥ゆかしいものではなかったか。近づけばよい香りがするのは結構だが、遠くから鼻先をつかんで引き寄せるような真似には品がない。これはもしや、見かけの華やかさだけで押し切ろうとする手合いではあるまいか。
そう思った瞬間、吾輩はぴたりと止まった。
大事なのは、ここである。
ただ甘い匂いに惹かれて近づき、危険を察して慌てて逃げた、などという話にしてはならぬ。
断じてならぬ。
あれは撤退ではない。
見極めである。
吾輩は空中でひとつ向きを変えた。
それも実に自然に。
最初からこの花には用がなかった、と言わんばかりの角度で。われながら見事な切り返しであったと思う。もし誰か見ていたなら、危機回避とは気づかず、ただひらりと気まぐれに舞っただけに見えたに違いない。
そうであってほしい。
のちに聞けば、強い香りや蜜には気をつけたほうがよい花もあるらしい。ツツジの仲間などには、蜜にも毒性成分をもつ例があるという。甘ければ善、華やかなら無害、と決めつけるのは浅はかである。世の中には、あからさまに親切な顔をして近づいてくるものほど、こちらの判断を鈍らせる場合があるのだ。
まことに油断ならぬ。
だが、だからといって吾輩が花を疑ってばかりの蝶になるわけではない。
それではいけない。
花は渡るものであり、香りは感じるものであり、吾輩は飛ぶものである。生き、蜜を求め、巡り、次の世代へつなぐ。それだけのことをしているにすぎぬのに、どういうわけか華麗に見えてしまうのは、もはや吾輩の責ではない。
仕方あるまい。
ある花に身を寄せ、また別の花へ移る。
風に押されても姿勢を崩さず、光の中を抜ける。
ときに危うい匂いを見抜き、ときに正しき甘さを選び取る。
そうして今日も吾輩は、生きるべくして生きている。
ただそれだけである。
ただそれだけなのだが、どうも世間には、そうは見えぬらしい。
花から花へ。
留まっているようで、留まらぬ。
愛でられているようで、誰のものでもない。
なるほど、たしかにこれは、少しくらい華麗に見えても不思議はないのかもしれぬ。
もちろん、吾輩自身は驕らぬ。
華麗だからといって、強すぎる匂いに二度とうっかりしない保証はないし、風向きひとつで着地の品位が怪しくなる日もある。生きるとは、案外そういうものである。
それでも吾輩は飛ぶ。
甘いものには少し警戒を。
だが、怯えて羽を閉じるほどではない。
華麗なる存在というのも、なかなか気苦労が多いのである。
なにしろ吾輩の姿は、生きているだけで華麗らしい。
ならば今後も、なるべくその期待を裏切らぬようにしておくのがよかろう。
もっとも、それとて大仰な努力ではない。
吾輩はただ、これからも吾輩らしくあり続ける予定である。




