短編 境界 ――魔術師マリオン――
乾きかけた血の独特の匂いがする。
壮絶な戦いの末、彼の剣は相手の首を打ち落とした。
そのときの名残が、さっきまで着ていた上着とマントに染み付いていて、どうあがいても取れなかった。
相手は自分と同じ、名うての魔術師だったが、ある町で事件を起こし大勢の人を殺していた。困った町の人たちよって、ひそかにマリオンが呼ばれ、彼を何とかしてくれ、と懇願されたのだ。
死んでもいい人間は世の中にいない、というが、自分も殺したくて殺したつもりはなかった。彼はかなり手強く、自分の身の安全のためにも殺さざるを得なかったのだ。殺さなければ、たぶん自分が死んでいただろう。
だが、その行為は人殺し、である。どう言いつくろって、大義名分を振りかざしてみても、それは人殺しでしかなかった。
一歩間違えば、自分だって相手と同じように、ひねくれた価値観を持った黒い魔術師になっていたかもしれない。斬られた魔術師の首は、最後の最後までマリオンに向かって呪いの言葉を吐いていた。
憂鬱な気分だった。
髪の毛にも少し血しぶきを浴びてしまい、ぱりぱりと乾いているのが、たまらなく嫌だった。
城へ戻るなり、取るものも取り合えず真っ先に地下へ向かい、湧き出ている湯を念入りに浴びて、新しい服に着替えてはみたのだが、鼻の奥に血生臭い匂いがこびりついている気がした。
まるで、あの魔術師の呪いがマリオンの内部に染み込んで、中から打ち崩そうとしているかのようだった。
ガウンを羽織り、髪を拭きながら自分の部屋に戻ると、
「お帰りなさい」
同居している婚約者のフェリシアの優しく明るい声がマリオンを迎えた。
「ただいま」
彼の声は少し疲れたようにかすれている。
だが、相手はそれに気がつかないふりをした。
「美味しいご飯ができてるわ。今日はね、シチュウとサラダとラズベリーのパイなの。パンは焼きたてよ?」
「そう、それは楽しみだね」
できる限り明るい声を出すように努めながら、彼は夕餉のために着替えをはじめた。
その間中フェリシアは、彼が留守の間に城内であったことや、買い物に出かけた先であったことを熱心に面白おかしくしゃべり続ける。彼は微笑を浮かべ、いちいちそれに相槌を打ちながら、引出しの中にあるはずの上着の襟を止めるピンを探した。
だが、いつもの場所にいつものピンが見当たらない。
「あら? ピンがないの? 探してあげましょうか?」
目ざとくそれを認めたフェリシアは、明るい声でそう言うなり、気さくに彼の部屋へ入ってきた。彼女が側を通ると、ふわりと優しい薔薇の香りがした。
「おかしいわねぇ。この前つけたときはどうしたの? あなた、ちゃんとはずした?」
「さぁ? どうしたっけ?」
上の空で答えながら、マリオンは彼女の薔薇の香りにくらりと眩暈を覚えた。
それは侵しがたく近寄りがたい、だが、憧れと渇望の香りだった。柔らかな薔薇の香りで境界ができている気がして、マリオンは彼女の側に寄ることができず、よろめくように後退った。
血の匂いがする男と、薔薇の香りがする女では、あまりにも違いすぎる。
そこには、確固たる境界が存在する。
それは地位よりも身分よりも財産よりも、さらに明確かつ強力に人間というものを別つ境界線だった。
「どうかしたの? どこか痛いの? 変よ、あなた」
気がつくと、目を閉じて柱に寄りかかっていた自分の顔を、フェリシアが心配そうに覗き込んでいた。
「僕の側に寄らないほうがいい」
思わず口をついて出た言葉に、フェリシアが驚いた顔をした。
そう、それでいいよ。
僕に近づくな。
僕は君を汚したくない。君からは薔薇の香りだけしてればいいんだ。血の匂いは似合わない。
「いやね、何を言ってるの? ほうら、ピンを見つけたわよ。あなたったら、この前上着からはずさずにしまっちゃったでしょう?」
フェリシアがピンを片手にマリオンに近づいてくる。
近づくな、ともう一度口に出してはっきりと言うことは、彼女を傷つけてしまうだろうか?
マリオンが迷っているうちに、彼女はいともたやすく境界を越える。彼女はふわりと漂うようにそばへ来ると、細い白い指をひらめかせ、器用にピンで彼の襟元を止めた。
「はい、出来上がり」
それからフェリシアは彼の胸に手を滑らせ、そっと寄り添い、彼の心臓のあたりに耳を押し当てる。
「ほら、大丈夫よ。何を心配してるの?」
自然に自分の腕が彼女の細い身体を抱きしめているのに気が付くが、彼にはその腕を離すことがすでにできない。
黒にとって白が、闇にとって光が、憧憬と思慕の対象であるように、彼にとって彼女がそれであったから……。
駆逐され、侵されてしまうのは、いったい白と黒のどちらなのか?
せめぎあう黒白の境界線に、マリオンの胸が苦しくなる。噛み締めた唇からは血の味がしている。
白い布に黒い染め桶に浸せば、白い布はもはや白ではない。
だが、黒い布を白い染め桶に浸しても、灰色になるだけで白くはならず、もう一度黒い染め桶に浸せば、元通りの黒に戻るに違いない。黒く染めることは、いとも容易い。
その昔、ある魔術師が彼に告げたように、黒は白より強いのかもしれない。だとすれば、いつか彼女はマリオンに染められて、黒い色に染まってしまうのかもしれない。
それがひたすら恐ろしかった。
やがて、彼女はやさしい顔でマリオンを見上げた。
それから彼と目があうと、にっこりと微笑み、右手で彼の額から金の左眼を隠している前髪を払いのけた。強い魔力ゆえに誰もが恐れる彼の左眼を、彼女は躊躇なく覗き込んだ。
「僕は、治癒魔法が苦手だ」
マリオンの唐突な言葉に、フェリシアがきょとんとした顔をした。
「知ってるけど。今更、なんなの?」
「僕は……、人を癒すことができない。そういう風にできているんだ」
フェリシアは極上の微笑を浮かべたまま、つと背伸びして、彼の唇に自分の唇を合わせた。
いつもと違い、彼はそのくちづけには答えなかった。
だが、フェリシアはそれをまるで気にしていなかった。
今のは、自分の気持ちを表してみただけのこと。
そして、彼女はそれをもっと素直に言葉にした。
「いつでも、どんなあなたでも、愛してるわ」
癒しと浄化の言葉にマリオンの口からため息が漏れる。
今ひとたび、信じてもいいのだろうか。
白は黒よりも強いということを。
だが、次の瞬間、再びフェリシアの口から流れ出た言葉にマリオンは愕然とした。
「いつでも、どんなあなたでも、私は愛してる。じゃあ、あなたは?」
考えたこともなかった。
彼女に白以外のものを重ねたことがない。
たとえ私が黒く染まっても、あなたは私を愛してくれるの?
そう問い掛けているようなフェリシアの真摯なまなざしを、マリオンはしっかりと受け止める。
一瞬止まった息を、彼はゆっくりと吐き出した。
そう、そうだね。きっとなんとかなる。
僕はどんな君でもきっと許せる。だからきっと君も……。
「いつでも、どんな君でも、僕も愛してるよ」
少しかすれてはいたが、はっきりした彼の言葉にフェリシアはにこりと微笑んだ。
「そう、すごく嬉しいわ。さぁ、あちらでお夕飯をいただきましょう。おなかすいたでしょ?」
彼女が腕の中からするりと抜け出し、彼の左手をとった。
ほっそりとした少し冷たい手が、彼の手をしっかりと握りしめた。
マリオンの目に、黒い闇のかすかな焔が彼女と自分の間に立ち昇り、ぼんやりとした境界線を形作るのが見えたが、それはやがて白い光の中に消えていった。
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