「そんな怖い顔をしなくても離婚なんて冗談だよ、冗談」
五百年ぶりの短いお話です。
「シェリル・ルシフィード、悪女として裁かれるのは君の方だ。王太子に甘言を囁いてマリエッタ嬢との婚約を破棄させ、妃の座を手に入れようとした罪はあまりに重い」
落ち着き払った、けれど確かな怒気を含んだ声が、大広間に重く響き渡る。
この日は、王太子クリストフと伯爵令嬢シェリルの婚約祝いパーティーが開催されていた。
会場には国内の貴族だけでなく、有力な豪商や学者、さらには他国の使節団までが、二人を祝福するために一堂に会していた。
ところが、その華やかな宴の最中に、突如としてシェリルの断罪劇が始まったのである。
「か、甘言だなんて……」
純白のドレスを纏ったシェリルの体が、小刻みに震える。幸せの絶頂から一転、地獄に突き落とされた彼女の顔からはすっかり血の気が引いていた。
「私はただ、クリス様のご相談に乗っていただけです! それなのに、どうしてそんな酷いことを仰るんですか……っ?」
シェリルの大きな瞳から、涙がぽろぽろと零れ落ちる。可憐な顔立ちも相まって、その姿は理不尽な仕打ちに耐える小動物のようだ。
しかし、遠巻きに眺めている女性陣の視線は研ぎ澄まされた刃のように冷たく、鋭かった。
「相変わらず、裏表のない純粋なお方ですこと」
一人の夫人が扇で口元を隠しながら、ぽつりと零した。
もちろん、本心を極薄のオブラートで包み込んだ嫌みである。
まだまだ世間知らずな令嬢ならいざ知らず、酸いも甘いも噛み分けてきた夫人たちは、シェリルの本性をとっくに見抜いていた。
無邪気で可憐な私は、誰とでも仲良くなりたい。
個人の感情より、家柄や政略を優先する結婚なんておかしい。
身分の壁のせいで、目上の人と親しくなれないのは間違っている。
とまあ、これがシェリルの思考回路である。
耳障りだけは良いため、同調する若者は少なくない。けれど夫人たちからすれば、そんなものは現実を見ていないお花畑発言のオンパレードでしかなかった。
当の本人に何の悪気もないから、なおさらタチが悪い。
しかも最悪なことに、よりによって王太子がシェリルに骨抜きにされた。
勤勉家で常に冷静沈着なマリエッタより、純粋無垢なシェリルの方が輝いて見えたのだろう。
『いっつもお勉強とお仕事ばかりで、マリエッタ様は冷たいです。クリス様はこんなに寂しがってるのにっ!』
シェリルのその甘い囁きが決定打となり、王太子はマリエッタとの婚約を一方的に破棄した。その際、『君がいると気分が悪くなる』という王族にあるまじき暴言を浴びせて。
そして、すぐさまシェリルを新たな婚約者の座に据えたものの、その幸福は長くは続かなかった。
シェリルの成績は、学園でもせいぜい中の下。
万年赤点ギリギリの彼女に、過酷な妃教育など務まるはずもない。
案の定、僅か一週間で音を上げ、教育係たちも前代未聞の問題児に頭を抱えることとなった。
さらにマリエッタが去ったことで、これまで彼女が代わりにこなしていた執務を引き受ける者がいなくなった。シェリルほどではないにせよ、お世辞にも優秀と言えない王太子はようやく己の過ちに気づくが、時すでに遅し。
慌ててマリエッタとの復縁を目論むも、彼女はとある公爵子息との婚約を結んだ後だった。
そして今、大衆の面前でシェリルの罪を厳しく糾弾している者こそ、その公爵子息である。
ちなみに件の王太子はといえば、会場の隅で顔を赤くしたり青くしたりと忙しい。
恐らく彼もまた王位継承権を剥奪され、その座を第二王子に譲ることになるだろう。
何はともあれ、これにて一件落着――とは、残念ながらいかなかった。
むしろ、ここからが地獄の本番と言っても過言ではない。
シェリルは以前から王太子以外の異性と『親しく』しており、あろうことか婚約後も、その多くと関係が続いていたことが発覚したのだ。
アメリー・ランゴッドが侯爵家の三男・フェルナンと結婚したのは、三年前のことだ。
王都の大通りで宝石店を営むアメリーにフェルナンが一目惚れし、熱烈なプロポーズ。侯爵夫妻から特に反対されることなく、二人は無事に結ばれた。
それからは大きな事件もなく、穏やかに暮らしてきた。
二日前、王城からの使いが突然訪れ、「あなたの夫はシェリルと関係を持っている」という事実を突きつけられるまでは。
「これはどういうことですか」
アメリーがテーブルに置いたのは、店の在庫表だった。
「奥の倉庫に保管していた商品がいくつか減っています。それも、値の張るものばかり」
棚には厳重に鍵をかけていたので、外部の人間の仕業とは考えにくい。
とすると、犯人はただ一人しかいない。
動かぬ証拠を突きつけられ、夫のフェルナンはあからさまに目を泳がせた。
「な、何かの間違いじゃないかな。店の売り物をシェリルに贈るわけないじゃないか。一昨日、城の人間が言っていたこともデタラメだよ。シェリルとは君が思っているような仲じゃない。ほら、彼女はうちの常連だったろう? 商品の説明をしているところを他の客に見られて、勘違いされたんじゃないかな」
いつもより少し早口になるのは、夫が嘘をつく時の癖だ。
しかも、こちらはまだシェリルの名前を一言も出していない。
よりによって店の売り物をシェリルに貢いだんですか、あなた。
勝手に自爆した上に見え透いた嘘を垂れ流す夫に、腹の底からマグマのような怒りがせり上がってくる。同時に、悔しさで両目に映る夫の姿がじわりと滲んだ。
すると妻の激情を察知したのか、フェルナンは不満げに眉をひそめた。
「何だよ、僕を疑ってるのか?」
「あなたが店の在庫確認をすると言い出したのは半年前。シェリルさんとの関係が始まったのも半年前です。これで疑わない方がおかしいでしょう!? 友人の家に泊まると言っていた日だって、本当はシェリルさんと……!」
「ああもう、うるさいな!」
フェルナンはそこで、テーブルに拳を叩きつけた。重く鈍い音が響き、アメリーの細い肩がびくりと跳ねる。
「君は四の五の言わずに、黙ってはいはいって頷いていればいいんだよ! それが妻の務めだろう!?」
言い争いで負けそうになると、途端に言葉が荒くなる。これもフェルナンの悪癖で、これまで幾度となく困らされてきた。
けれど、今回ばかりはアメリーも引き下がれなかった。ただ不貞を働いていただけでなく、大切な商品に手をつけられていたのだから。
「わ、私は、あなたの奴隷になるために結婚したのではありません……!」
「だったら離婚だ、離婚! 君みたいな真面目だけが取り柄のつまらない女には、いい加減うんざりしてたんだ!」
離婚。ついに飛び出した禁断の二文字に、アメリーは思わず言葉を失った。
その様子を見て、フェルナンは勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「僕はまだ若いからね。いくらでも次の嫁なんて選べるし、実家に戻って父上の仕事でも手伝っていればいい。だけど、君はどうするの? この店が王都で名を知られるようになったのは、僕の実家が多額の資金を援助してあげたからだよ」
「それは……」
「いくら息子の妻のためとはいえ、そこまでしてやるほど父上だって優しくない。だから援助の条件として『もし離婚するようなことがあれば、この店は僕の財産として譲り受ける』って約束、契約書にもサインしたよね?」
アメリーは何も言い返せず、唇を噛み締める。
流行り病で亡くなった両親の店を守るためなら、どんなことでもするつもりだった。
経営が忙しかった時期、フェルナンの優しさは確かに支えになったし、侯爵から援助を申し出られた時は涙が出るほど嬉しかったのだ。
けれど、あの時の恩義がこんな形で首を絞める罠になるとは、夢にも思っていなかった。
「そんな怖い顔をしなくても、離婚なんて冗談だよ、冗談。僕が愛してるのは君だけなんだから。というわけで、今回の件は悪い夢だと思ってお互い忘れちゃおう。ね、アメリー?」
「…………」
「ほら、返事は?」
「……分かり、ました」
様々な感情を無理やり飲み込み、アメリーは乾き切った喉で必死に声を絞り出した。
「そうそう、分かればいいんだよ」
フェルナンは目を細めて満足げに微笑む。
妻を慈しむのではなく、獲物を屈服させて悦に浸る捕食者の笑みだった。
シェリル事変・第二幕は、国中を未曾有の大波乱に陥れた。
筆頭公爵から男爵子息、はたまた酒場の主人まで。
シェリルの『交友関係』は、母なる海のように広大だった。王太子と婚約して王城に移ってからも、こっそり王都に繰り出していたらしい。
これに激怒し呆れ果てる者が大半だったが、中には「大げさだ」と楽観視する者もいた。
フェルナンの両親である侯爵夫妻も、まさにそのタイプだ。
シェリルの件でフェルナンと言い争いをした数日後、その義母が何の前触れもなく店にやって来たのである。
『そこらの子猫と遊んであげたくらいで浮気だなんて、みっともない。嫉妬深い女は醜い本性が出るものよ。だからそんな陰気な顔をなさっているのね。せっかく素敵なお店なのに、あなたがいるだけで雰囲気が悪くなってしまうわ。フェルナンにはもっと明るいお嫁さんを選び直してもらわないと』
義母の嫌みが延々と続く中、フェルナンはその隣で腕組みをしてふんぞり返っていた。そして義母が帰ると、「あまり母上を怒らせないようにね」と勝ち誇ったように言った。
彼らはまったく理解していないのだ。シェリルが放った対岸の火事によって、自分たちの足元にまで火の粉が降りかかっていることに。
「ランゴッド様、どうかなさいましたか?」
その呼びかけにハッと意識を戻すと、向かい側に座る男がじっとこちらを見つめていた。そこでようやく、自分が来客の対応中だったことを思い出す。
「あ、いえ、すみません。何でもありません」
「……そうですか。それで、本日伺ったのは我が組合への加盟の件なのですが……大変申し上げにくいことに……」
男が曇った表情で言い淀む。彼が何を言わんとしているのか、アメリーには手に取るように分かった。
国際宝石院。
世界各国の宝飾業者が名を連ねる最高峰の団体で、加盟すれば様々な恩恵を受けられる。ただし、あちらから声がかかるのは大きな功績を上げた店のみ。
アメリーの宝石店『ランゴッド』もお墨付きをもらい、来月には正式加盟を控えているはずだった。
「そのお話が白紙になった、ということですね?」
アメリーの問いかけに、男――スフェーンは無言で頷いた。
彼は宝石院の役員で、これまで何度もアメリーの元へ足を運んでくれた人物だ。
「理由は、シェリルさんと私の夫の件ですよね」
「ご推察の通りです。彼女の醜聞はすでに我が国にも届いており、関係者の店と付き合うわけにはいかない、という結論に至りました。……ここまで話を進めておきながら、本当に申し訳ありません」
スフェーンがソファーから立ち上がって頭を下げた。アメリーは慌てて身を乗り出す。
「頭を上げてください、スフェーン様のせいではありません。それに、そちらにまでご迷惑をおかけするわけにはいきませんから」
シェリルが残した爪痕は、あまりにも深い。
それなのに事の重大さを理解していない人間が多すぎることに、アメリーは内心危機感を覚えていた。
一応、近所にはフェルナンを非難してくれる人もいる。だがその一方で、特に男衆の間では、アメリーのことを『口うるさい束縛妻』だと陰口を叩いているらしい。親しい主婦の一人がそっと教えてくれた。
「……私はこの町から去ろうと思います」
これ以上何か言ったところで、フェルナンたちは耳障りな戯言としか受け取らないだろう。
フェルナンと結婚しなければよかった、という後悔が胸の奥で渦巻く。
シェリルやフェルナン。彼らを擁護する者たちも許せないが、一番許せないのはこんな状況を許してしまった自分自身だった。
けれど、このまま嘆いてはいられない。
両親だってそんな姿を望んでいないし、何よりあの身勝手な連中と共倒れするなんてごめんだった。
「店を畳むおつもりですか」
スフェーンが眉を寄せ、案じるように尋ねる。アメリーは静かに首を振った。
「どうせ私が店を畳むと言っても夫たちは許さないでしょう。経営権はあちらにありますから。それに以前から『売り上げの割に利益が少ない』『どこかに金を隠しているんじゃないか』と疑われていましたし、今回息子に逆らった罰と称して、私を店から追い出す算段だと思います」
アメリーは目の前のスフェーンをまっすぐ見据え、穏やかに言葉を続ける。
「だから、その前に私から離婚を申し出ます。慰謝料代わりに店名の権利だけをもらう形で。侯爵家としては、店の名前を自分たちの好きなように変えられるチャンスですから、喜んで応じるはずです」
「その後は?」
「どこか遠い場所で地道にお金を貯めて、もう一度新しく『ランゴッド』を開きます」
どれだけ月日がかかるかは分からない。
けれど、どんな形であっても、両親が遺してくれた店は守り抜く。
その強い意志さえあれば、きっとどこまででも歩いていける。そんな気がしていた。
「なるほど、あなたのお気持ちはよく分かりました」
そう言いながら、スフェーンはソファーに座り直す。
その名が示す通りの黄緑色の瞳が、一瞬肉食獣のようにぎらりと不穏な光を放った気がして、アメリーはぎくりと身を強張らせた。けれど、戸惑いながら瞬きをした時には、彼の表情はいつものように柔らかく緩んでいる。
今のは、見間違いだったのだろうか。
「でしたら、王都を発たれる前に、この店で最後の買い物をさせてください。実は、ずっと狙っていた『一番の宝石』があるんです」
「は、はい。どちらをお求めでしょうか?」
国際宝石院の幹部である彼が、それほどまでに所望する一品だ。
一体どれのことだろうとアメリーが頭の中で商品を見当していると、スフェーンはとびきりの笑顔で告げた。
「あなた自身です」
アメリーがフェルナンに離婚届を差し出したのは、それから半月後のことだ。
まさか妻の方から離婚を切り出されるとは思っていなかったのだろう、フェルナンの動揺ぶりはすさまじかった。
「ぼ、僕と夫婦でなくなっちゃうんだよ? 君がずっと守ってきた店を手放すことになるんだよ? 夫を支えるのが嫌になったからって店を投げ出すなんて、親不孝者だとは思わないのかい?」
いかにもこちらの罪悪感を煽るような言い草だが、それもすべて予想済みだ。
アメリーの意志が揺らぐことは万に一つもなかった。
「ええ。私はとんでもない親不孝者です。あなただって、そんな不届きな女とこれ以上人生を歩みたくはないでしょう?」
そう淡々と切り返すと、フェルナンは複雑な顔をした。
離婚をちらつかれば、従順になるとでも思っていたのだろう。
可愛げのない女でごめんなさいね、とアメリーは悪びれることなく心の中で言った。
懸念していた店名の権利も、すんなり獲得することができた。侯爵夫妻はこれみよがしに慰謝料を渡そうとしてきたが、きっぱりと断った。これ以上、彼らに恩を作りたくなかったからだ。
けれど、物心がつく前から過ごしてきた店を出る瞬間は、流石に中々足が動かなかった。
「へえ、まだいたんだ?」
背後から聞こえたフェルナンの一言に背中を押され、アメリーは未練を断ち切って店を後にした。
経緯はどうあれ、宝石店は完全に侯爵家の所有物となった。妻の生意気な態度は癪に障ったが、これはこれで悪くないとフェルナンはほくそ笑んでいた。
『ランゴッド』は、優秀な宝石細工師が仕立てた宝飾品を取り扱い、優良な鉱山から直接原石を買いつけることで、多岐にわたるラインナップを揃えていた。
そんな店を切り盛りしているのは、まだ年若い女一人。
これは絶好のチャンスだ、とフェルナンは確信した。
侯爵家の三男でありながら、これまで大した功績も残せていない彼は、自分の手で何か大きな事業を起こしたいと常々考えていたのだ。
アメリーに近づいたのも、最初からそれが目的だったに過ぎない。
両親に報告すれば、「よくやった」と大層褒められた。様々な事業を手掛ける侯爵家にとっても、宝石業はまだ未開拓の分野だったからだ。
(ちょっとぐらい火遊びをしたくらいで、店が手に入るんだから儲けものだな)
シェリルは魅力的な少女だった。
元王太子を始め、あらゆる男が虜になったのも頷ける。いつも仕事ばかりで、夜もろくに付き合ってくれなかったアメリーとは大違いだ。
店名をさっそく『フェルナン』に変更し、その旨を王都だけでなく国内中にチラシで大々的に宣伝した。
もうすぐ国際宝石院への加盟も決まり、店はさらに大きく発展していく。
そのはずだった。
「は……?」
ある日、お抱えの宝石職人たちから契約破棄の手紙が届き、フェルナンは愕然とした。
しかも全員からで、理由は『諸事情により』としか書かれていない。
こんなことが許されてたまるか。フェルナンは実家に頼んで撤回を迫らせたが、職人たちは「すでに他国の宝石店と新契約を結び、そちらの仕事で手一杯なので」と聞く耳を持たない。
仕方なく新しく職人を募集したものの、集まったのは独学で学んだ素人ばかり。当然、商品の質はガタ落ちし、売り上げは急降下していった。
それなら裸石の販売で利益を上げればいい、と考え直した矢先、今度は複数の鉱山から次々と契約を打ち切られてしまう。
このままでは店が立ち行かなくなる。
焦ったフェルナンは、とある未開発の鉱山を採掘しようと思いついたが、あっさり断られてしまった。
『採掘には安全管理が絶対条件です。そのためには万全な開発工事が必要不可欠ですが、これしきの予算ではろくな対策もできません。あなたは鉱員たちの命を危険に晒すおつもりですか?』
『鉱員が使い物にならなくなったら、代わりを補充すればいいだけだ! 君たちは何も考えずに掘り進めればいいんだよ!』
怒りで顔を真っ赤にするフェルナンを、開発責任者は心底呆れ果てた目で睨みつけた。
『アメリー様は、何があっても絶対に事故を起こさないようにと、常に潤沢な予算を組んでおられました。万が一の怪我人に対する補償制度も、手厚いものでしたよ。だからこそ、彼女は業界全体から絶大な信頼を寄せられていたのです』
『あ……』
フェルナンはそこでようやく、店の利益が売り上げの割に低かった理由に気づいた。
働く人々の安全を守り、確固たる信頼を築き上げることを最優先にする。それこそが妻のやり方だったのだ。
『こ、声を荒らげて悪かったよ。予算ならもっと上乗せしよう。いくら時間をかけたって構わない。だから……』
『そもそも、あなたのような方とお付き合いするつもりはありません。そんなことをしたら、こちらまでリベーヌ王国に睨まれてしまいますから』
『は?』
『それでは、私はこれで失礼いたします』
困惑するフェルナンを置き去りにして、開発責任者は去っていく。
彼が放った言葉の意味を思い知らされたのは、それから少し経ってからのこと。
すべての元凶であるシェリルが、王太子を奪うために陥れた前婚約者のマリエッタ。
彼女は伯爵家の令嬢だが、その叔母はリベーヌ王国の王女という血筋である。
海の向こうに位置する島国リベーヌ王国は、この国とは比較にならないほどの経済力と軍事力を誇る超大国である。
そして何故か一向に加盟の通知を寄越してこない国際宝石院の本部がある国でもあった。
愚かな王太子と、頭も節操も緩い小娘のせいでマリエッタが泥を塗られた。その一報は、すぐさまリベーヌ王国へ届いた。
かの国は激怒し、こちらの王家に対して長々とした抗議文を送りつけた。
さらに彼らは、シェリルが不特定多数の男たちと関係を持っていた事実も把握しており、その相手やシェリルを擁護した者に対しても凄まじい怒りを抱いていた。
大国がわざわざ直接手を下す必要はない。
「激怒している」という意思表示をするだけで、その効果は絶大である。
だからこそ、マリエッタの婚約者となった公爵子息は、あのパーティーの場でシェリルを徹底的に晒し者にしたのだ。
「我が国は、シェリルと王太子を愚か者と見なしました」と国外へアピールするために。
だが、フェルナンは何も知らなかった。
いや、正確にはアメリーからマリエッタの血筋について何度も聞かされていたのに、「姪のために大国が干渉してくるわけがない」と鼻で笑って聞き流していたのだ。
侯爵夫妻は状況を察してはいたものの、「時間が経てばすぐに収まるだろう」と高みの見物を決め込んでいた。
『お前は一体、何てことをしてくれたんだ! 我が侯爵家まで、すべての商会から事業の契約を打ち切られたのだぞ!』
『あなたのせいで、茶会の誘いも夜会の招待も一切来なくなったのよ! それどころか、外に出れば領民からまで冷めたい目で見られて……どうしてくれるの!』
『結婚して子供ができて、父上の跡を継ぐまではのんびり暮らすはずだったんだぞ! 全部、お前のせいで台無しだ!』
両親や兄から激しい罵声を浴びせられ、フェルナンは完全に心を折られた。
現在は店を開けることもなく、残った商品を他店に売り払い、その金で昼間から酒を飲んだくれる自堕落な生活を送っている。
だが、そんな現実逃避がいつまでも続くはずがない。
なけなしの財産が底を尽き、店そのものを売り飛ばす日は着実に迫っていた。
(……やっぱりこうなったわね)
王都に住む友人から届いた手紙で元夫たちの近況を知り、アメリーは小さく溜め息をついた。
シェリルと関係を持った時点で、フェルナンは詰んでいたも同然。
その上、彼は普段から店の経営をアメリーに丸投げしており、商売のしの字も理解していない体たらくだった。
そんな世間知らずな彼が、アメリー抜きで宝石店をまともに経営できるはずがなかったのだ。
一方のアメリーはといえば、スフェーンの誘いを受けてリベーヌ王国で暮らしている。
現在は新しい宝石店『ランゴッド』の開店準備を進めているところだ。
移転にあたって、かつて契約していた職人や鉱山関係者たちには手紙を送ったのだが、何と全員から「またアメリーの店と契約させて欲しい」と返事が届いた。
アメリーはただ拠点を変えただけで『ランゴッド』を再始動できることになったのだ。
大切な財産をすべて抱えて海を渡り、地獄の業火から何とか逃げ切ったのである。
(とはいえ、私の本番はここからだけど)
異国での商売は、一筋縄ではいかない。
文化も違えば顧客の好みも違う。リベーヌ王国のニーズに合わせた新しい売り込みをしていかなければ。
そう意気込んでいると、横から湯気の立ったティーカップを差し出された。
「そんなに難しい顔をして、どうしたんですか?」
そう優しく笑いかけ、アメリーの向かい側に腰を下ろしたのはスフェーンだった。
「……王都の友人から届いた手紙を読んでいました。夫のことが書かれていて」
「元夫、ですよね。そこ、結構大事なポイントですよ」
すかさず訂正されて、アメリーは「あ、そうでした」とこくこく頷いた。
スフェーンは本当に親切な男だ。
彼はリベーヌ王国でもかなりの名門貴族の出身らしい。アメリーを自分の屋敷に居候させ、新店舗の立地を提供し、何から何まで手配してくれているのだ。さらには、この国の最新の流行をまとめた詳細なデータまで作ってくれた。
(自分が直接スカウトした商人だもの。何としてでも成功させたいのよね。私もその期待に全力で応えないと)
心を新たにしながら、アメリーは淹れたての紅茶を口に含んだ。マスカットに似た芳醇な香りが、ふわりと鼻腔を抜けていく。
「そういえば、お店が無事にオープンしたら、私もその近くに引っ越そうと思いま──」
「何故ですか?」
言い切るより早く、食い気味に尋ねられた。以前も見たような鋭い眼差しが少し怖い。
「だって、新しく借りるお店には居住スペースがありませんし、まさか店内で寝泊まりするわけにも……」
「この屋敷に居ればいいじゃないですか。馬車を使えば十五分で店に着くでしょう?」
「ずっとスフェーン様のお世話になり続けるのも、申し訳なくて……」
「そんなこと、これっぽっちも気にしなくていいんですよ。あなたはご自分と店のことだけを考えてください」
「でも……」
「私と同じ屋敷で暮らすのは、嫌ですか?」
「そんなことありません!」
思わず大きな声を出してしまった。けれど、アメリーは構わず言葉を続ける。
「スフェーン様とこうしてお話ししたり、お茶をいただく時間はとても楽しいです。ただ、もしも愛想を尽かされるようなことがあったら……」
「とんでもない。私はあなたを何よりも大切に思っていますよ」
「……ありがとうございます。不思議ですね。スフェーン様にそう言っていただくと、何だか勇気と力が湧いてくるんです」
前向きな笑顔を見せると、スフェーンもそれに応えるように笑いかけた。何故か少しだけぎこちなかったが。
今年二十七歳になるアメリーに対して、スフェーンは二十二歳の若者だ。
この年齢差と身分差のせいで、一つの可能性を失念していることにアメリーは自覚すらしていなかった。
火の手から逃げてきて心機一転と思ってたら、外堀を埋められまくってるお話でした。




