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オオカミ侯爵はウサギ令嬢を撫でたい

作者: 佐久矢この
掲載日:2026/03/01


「本当にいいんだな」


緊張しているのがよくわかる声だった。

艶のあるいい声だなとリネットはぼんやり思う。


アルヴァン・エスリード侯爵様の大きな手は、リネットの頭にはえたふかふかの白いウサギ耳に触れようとして、そこで止まった。

もう一週間になるのに、まだ慣れないらしい。


侯爵邸の応接間は、午後の光が高窓から斜めに差し込み、濃い色の絨毯にやわらかな影を落としていた。


重厚な調度品に囲まれたその空間で、アルヴァンはひどく場違いなほど緊張している。

やがて、その少し節ばった手がちょこんと耳の先に触れた。


「もう少し強く撫でてもよいですよ」と言うと、指先がわずかに震える。

「……怖がるかもしれないだろう」


視線は私ではなく、なぜか壁際の花瓶に向いている。


「怖がっていませんけど」

「……逃げないのか」


探るような問いに、私は首を傾げた。


「キツネのほうが怖かったので」


その瞬間、侯爵の肩が小さく跳ねる。

硬直、という言葉がぴったりだった。

それでも手は離れない。


「それに、貴方様に最初にお会いした時に、怖くないと思ったんですよね。草食動物の勘です」


今度は完全に動きが止まる。

耳の付け根に触れていた指が、行き場を失ったように宙をさまよい、やがてそっと撫で下ろす。


「嫌なら逃げろよ」

「逃げたくなったら逃げます」


侯爵の喉が小さく鳴る。

獲物を前にしたオオカミのようなしぐさなのに、リネットは不思議と怖いとは思わなかった。


指先が、ほんの少しだけ強くなる。

そのわずかな力加減の変化が、妙に可笑しい。

あの夜会でも、庭の兎を見ながら、このオオカミ侯爵様は同じ顔をしていた。







デビュタントの夜は、男爵家の娘にとって賭けだった。

上級貴族と同じ夜会に立てる機会はほとんどない。


広間には磨き上げられた大理石の床が広がり、天井のシャンデリアが星のように瞬いている。

その光の下に立つだけで、場違いな気がして喉が渇いた。


父は出立前、手袋をはめながら私を見た。


「お前の未来は今日にかかっている。いや、もうここにしかかかっていないと言ってもいい」

「お父様。目が血走っていて怖いです」

「ここで良い縁談がなければ、お前を、あの幼女趣味の変態キツネにやるしかなくなる!!とりあえず、上級貴族ならなんでもいい。あれに抵抗できる男を捕まえてこい」


父の涙目にも見える血走った目を見ながら、リネットはうーんと唸った。


ウサギ獣人らしく、真っ白なふわふわの髪と赤い瞳、小さく華奢な体躯。

リネットは可愛い。

可愛いが、それは子どもや小動物を見たときに感じる可愛さである。


愛玩動物のようだと、よく言われる。


そんなリネットが見初められるとして、幼女趣味のおかしな男な気がする。

実際に、デビュタント前からリネットに目をつけ追いまわしているキツネの獣人は、リネットの父よりも10歳年上である。


音楽が流れ、人々が笑い合う中で、見知った姿が近づいてくる。

キツネ獣人のふさふさした小麦色の耳が、同じ色の髪から覗いている。

セドリック侯爵だ。


幼い頃から何度も顔を合わせてきたはずなのに、今夜の彼はやけに大きく見えた。


リネットは無作法にならない程度に急いで庭へ出た。


「あのキツネ、本当に怖い……無理だわ……」


夜風が火照った頬を撫でる。

月明かりが芝生を銀色に染めていた。


深く息を吸い込んだとき、茂みの向こうに大きな影が見えた。

黒い髪が闇夜にとけて見えにくい。


その足元では、庭の野兎が一匹、草を食んでいる。

大きな手が、信じられないほど慎重に、柔らかそうな兎の背に向かって伸ばされていた。


「……頼む」


ほとんど祈りのような小さな声。

指先がわずかに動いた瞬間、白い影が跳ねた。


屈んだ姿勢のまま、ただ伸ばした手をゆっくりと引く。

その肩が、ほんの少しだけ落ちた。


「あまり目を合わせすぎないほうが良いかもしれませんね」


肩がびくりと跳ねて、まずいものを見られたといった顔をした彼が振り向いた。


「あ」


リネットは頭の中の貴族名鑑をめくった。


たしか、アルヴァン・エスリード侯爵だ。


若くして侯爵家を継いだ英才だが、冷徹で愛想がないと友人たちが話しているのを聞いたことがある。


そして、黒髪の間からのぞく三角の黒い耳からもわかるように、オオカミ獣人である。


「目を合わせないと、余計に怖いのではないだろうか」


エスリード侯爵は、無表情ではあるが、あまり怖くは感じない。

リネットはうむと大仰にうなずくと、兎との接し方を語り始めた。


あんなに必死に手を伸ばしていらっしゃるのだ。

人助け、いや、オオカミ助けである。








庭から戻ると、キツネ侯爵がゆっくりと歩いてきた。

にこやかに。完璧な笑顔で。


まずいと思ったが、目の前で跪かれてしまえば、弱い立場のこちらの負けである。

キツネ侯爵、もといセドリック侯爵は、逃げ場のないウサギを追い詰めて、ご満悦といった様子でリネットの前に立った。



周囲の視線が一斉に集まる。

「リネット・アルバート男爵令嬢。私と…」

「あの、すみません。喉が渇きましたので……」

「無駄なことはやめておけ。男爵家に断る余裕はないだろう?」


静かにけん制して、セドリック侯爵はにやりと笑った。


そして彼が膝を折ろうとしたその時、ふと視界の端に、壁際の大きな影が映った。


オオカミ侯爵が、壁に寄りかかり立っている。


しかし、周囲の視線が、自然と彼へ寄った。

狼の血筋は、言葉より先に空気を変える。


庭の光景がよみがえる。

――この人は、嫌がるものを決して追い詰めない。

リネットは「ああ、先ほどはありがとうございました!」とわざとらしく大きな声をだして、エスリード侯爵の前まで、はしたなく走った。


当のエスリード侯爵は、軽く目を見張っている。

リネットはその前に立つと、小声で囁いた。

「私と婚約してくれれば、私のウサギ耳を毎日撫で放題ですよ」

一匹の狼が、完全に停止した。

「……正気か」

「正気です。撫で放題です。今なら特典として、侯爵邸の庭に人懐っこいウサギをお持ちします。撫で放題です」

「……な、撫で……冗談はよしなさい。大人をからかうものじゃない」

私は首を振る。

「冗談じゃないです。それに、私はもう成人していますよ」

「そうは言ってもだな。君、あのキツネとは……その、撫で放題契約を?」

「そんなわけないじゃないですか。気持ち悪い」

「気持ち悪い……」


リネットは内緒話のトーンから、大きすぎない、だが周りに届く声に変えた。

「あの人、私が8歳くらいから目を付けてるんですよね。買い物に行くと勝手についてきますし、毎日際どい衣装を送りつけてくるし、この間は下着を贈られました。婚約者でもなんでもないのに」

狼の耳がぴくりと立つ。



「……なに? まさかそんなことを……」

「あと、すぐ腰に手を回そうとしますし、私のこと“自分のもの”って皆に言いふらしますし、私と話すなって他の方々に言ったり」

「それは君を守るためだよ」


リネットに追いついてきたセドリック侯爵が、困ったように笑う。

「普通に怖いです」

さらりと言うと、狼が一歩前に出た。

大きな背中が、自然にリネットを隠す。

「分かった。その婚約、引き受けよう」


広間がどよめく。

セドリック侯爵が眉をひそめる。

「私が先に目を付けていたんだぞ。横取りする気か」

「目を付けていただけだろう。私はいま本人の了承を取った」


リネットはそっとアルヴァン侯爵の袖をつまむ。

ここでこの撫で放題契約を成立させなければ、自分の人生は変態キツネにささげることになってしまう。

必死に腕に縋りつくリネットに、オオカミの喉がごくりと鳴る。

「……撫で放題、だったな」

「はい」

「二言はないな」

「はい」

「では、契約成立だ。今日から君は私のウサギだ」

リネットの父が遠くでふらりと倒れたのが見えた。

セドリック侯爵はしばらく沈黙し、それから肩をすくめる。

「ずいぶん大胆だね、リネット。君の家がどうなってもいいのかな」

リネットはにこりと笑う。

「大丈夫だと思います。これは、草食動物の勘です。危機管理だけは自信があるんです」

「次に彼女に近づいたら、容赦しない」

オオカミの挑発に、キツネはむうと口をとがらせ、分が悪いと思ったのか、去っていった。



こうして、リネットの婚約、もとい撫で放題契約は結ばれたのだった。








侯爵邸での暮らしは、思っていたよりも穏やかなものだった。


朝は領地の地図を広げ、川の流れや作物の収穫量を学ぶ。

午後は応接室で高位貴族の礼儀作法の確認。


アルヴァンは忙しく、執務室と行き来しているが、朝夕の撫で撫でタイムだけはきちんと守る。

その律儀さが、少し可笑しい。


ある日、舞踏会に備えてダンスの練習が始まった。


相手は侯爵家の執事。

銀髪の壮年で、髪と同じ色三角の耳と背筋がぴんと隙なく伸びている。


「お嬢様、視線は少し上へ」と優しく指示され、リネットはくるりと回る。

裾がふわりと広がる。

すると、視線の端で大きな影が動いた。


いつの間にか壁際に立っていたアルヴァンが、やけに無言でこちらを見ている。


音楽が止まり、リネットは息を整える。


「どうかなさいましたか?」と尋ねると、アルヴァンは低い声で言った。

「男はみんなオオカミだ」


その視線が、リネットの細い腰を支えている執事の手元に向いている。


「まあ、確かにこの屋敷の皆さんは、オオカミですけどね」


リネットは首を傾げて答える。

執事が一瞬だけ肩を震わせた。


「……必要以上に近い」

「ダンスですから」


リネットはまた首を傾げる。


「私のダンスが下手ということでしょうか?」

「いや、上手いほうだと思う。さすが、ウサギは跳ねるのが上手だ。だが、実際に夜会で一緒に踊るのは、執事ではなく俺だと思うのだが」

「それは本番です。本番で失敗しないために練習しているのです」

「では、本番でも練習でも俺でいいだろう」

「……アルヴァン様が忙しいかと思いまして……」


侯爵はすぐに視線を逸らした。


「そんなことはない」


言い直す声が少し早い。

リネットは一歩近づき、そっとその袖を引いた。


「では、アルヴァン様が練習相手になってください」


執事が恭しく一礼して下がる。

アルヴァンの手が、おそるおそるリネットの背に触れる。

撫で放題タイムよりもよりぎこちない。


「……足、踏むなよ」

「まあ、私、足を踏んだことなんて一度もありません」



ブイっと横を向いたのと同時に、音楽が再開する。


足取りに合わせて動くと、意外にもそのリードは驚くほど丁寧で、何も心配することはないというくらい体を預けて居られる。

リネットは自分の倍近くある大きな体躯にピッタリと体を寄せた。


回転のとき、しっかりと支えられる。

しかし、視線が合うと、すぐ逸らされる。


音楽が終わると、アルヴァンはさりげなくリネットの手を離したが、指先がほんの一瞬、名残惜しそうに動いたのを彼女は見逃さなかった。









侯爵家の食卓はとてもとても長い。


その長い食卓の端と端に座るのではなく、なぜかアルヴァンはいつもリネットの向かい側に座る。


メイドが料理を運ぶ間、執事が書類の束を持ってきてなにやらアルヴァンに耳打ちした。

侯爵様というのはゆっくり食事をする間もないくらい忙しいのだろうか。


その光景を何とはなしに見ながらスープを口に含む。


「領地の西側の森だが――」と執事と話していた声が、途中でふと止まる。


「……スープ、熱くないか」


リネットは首を振った。


「大丈夫です」


彼は小さくうなずき、また書類へ視線を落とす。

その仕草が妙に色っぽい。


食後、約束の時間になるとは必ず手袋を外す。


どんなに忙しくても、朝夕の撫で放題タイムは欠かさない。


大きな手が耳に触れる直前、いつも一瞬だけ止まる。


「いいのか」

「はい」


そのやり取りが、もう日常になっていた。

リネットはふと呟く。


「侯爵様は小動物がお好きなのに、無理に追いかけませんよね」

「嫌がるものには触れない」

「お庭の兎、最近餌をくれるメイドたちに慣れてきたみたいです」

「それは良かった」

「今度、お庭でピクニックをしましょう。もしかしたら兎に触れるかもしれませんよ」


アルヴァンは何も言わなかったが、三角のオオカミの耳がぴくぴくと動いた。

撫でる手が、ほんの少しだけ丁寧になる。



リネットは自然と頬をほころばせた。








「あら?こんなところに部屋なんてあったかしら」


夕食後、古い扉の前で足を止める。

鍵はかかっていなかった。


そっと押し開けると、地下へ続く階段が現れる。


下から灯りが漏れていた。

降りていくと、広い空間に布と糸と綿が積まれている。


棚にはずらりと並ぶぬいぐるみ。


小熊、猫、そして――兎。


白い耳がいくつも並んでいる。

リネットは思わず息を呑んだ。


「……見るな」


背後から低い声が落ちる。

振り返ると、部屋の真ん中にぽつんと置かれたソファにアルヴァンが座っていた。


頬が赤い。


「かわいいぬいぐるみですね、アルヴァン様」


そう言うと、彼は固まったまま動かない。


「お、俺のではない」

「そうなのですか?」

「その、小さい頃に母親が買ったぬいぐるみだ」

「それはアルヴァン様への贈り物なのでは?」


リネットは棚に近づき、一つ手に取る。

少しだけ縫い目が歪んでいる。


「この耳の形、好きです。ちょっと先が尖っているのが美人です」


沈黙が落ちる。

アルヴァンはゆっくりと歩み寄り、リネットの手から兎のぬいぐるみを抱き上げると、その顔の横にぬいぐるみをぴたりと押し付けた。


「似ているな」

「そりゃあ、兎ですから」

「……やる」


差し出されたそれを、リネットは両手で受け取る。


「ありがとうございます」


顔を上げると、アルヴァンの表情がわずかに緩んでいた。

ほんの一瞬。ぎこちない、


リネットは目を丸くする。


噂なんて当てにならないものだ。

この人が冷徹な侯爵様なんて、誰が言い出したのだろうか。


アルヴァンがあわてて視線を逸らす。


「アルヴァン様は、目を合わせるのがあまりお好きではないのですか?」

「なぜだ」

「いつも目が合うとそらされるので」


アルヴァンは首を傾げた。


「君が言ったんだろう。兎とは目を合わせすぎないほうが、怖がられないと」



リネットは思わず噴き出した。


「アルヴァン様、それを私に守っていただいていたのですね」

「おい、笑うな」

「だって。私、最初から貴方様に懐いていますのに」


今度こそアルヴァンは停止した。

それを見て、リネットはまた笑った。


「では、今度からは私から目を合わせにいきますね」

「……それは別の意味で困る」


答えるその声は、すねているようで、少しだけ優しかった。


「ところで、君も上位貴族の振る舞いも板についてきたし、次の夜会には、二人で出ようと思うのだが」

「ええ、もちろん。私は貴方様の契約ウサギですもの。どこでも一緒に行きます」


アルヴァンは困ったように頬を掻いた。


「ウサギというか、婚約者としてのお披露目も兼ねているというか、見せつけるべき相手がいるというか……まあ、いい。とりあえず、ドレスは琥珀色だ」


アルヴァンの琥珀色の瞳が、楽しそうに揺れた。









夜会の広間は、重たいシャンデリアの光に満ちていた。


花の刺繍の美しいドレスが歩くたびに揺れ、琥珀の光を引きずるようにきらめく。


デビュタントから数えて二回目の夜会。

同じ場所のはずなのに、胸の奥の景色はまるで違った。


香水と甘い酒の匂いが混じるその空間で、アルヴァンとリネットは仲睦まじく踊っていた。

周囲の視線は祝福よりも好奇心に満ちている。

オオカミとウサギが寄り添っている、それだけで十分な噂になるのだ。

練習した甲斐あって、二人のダンスはそれなりに形になっていたらしい。

曲が終わると、アルヴァンは真っ先にリネットの顔を覗き込んだ。

「大丈夫か」

息を上げたのはリネットのほうなのに、言葉はいつもアルヴァンのほうが慌てている。

「大丈夫ですよ?」

そう笑ってみせても、彼は納得しない。

会場の隅のソファに座らせ、まるで壊れ物でも扱うように膝にブランケットをかけ、さらに眉を寄せた。

「だが、少し顔が赤い」


アルヴァンの手が自然にリネットの蒸気した頬に触れた。

その手は少し冷たく、触れられたところから熱が引いていく気がする。

「会場の熱気に当てられたのかもしれないです」

「それは大変だ。飲み物を貰ってくる!ここにいて」

止める間もなく、アルヴァンは人波を割って行った。

背中が見えなくなるまでが速い。

過保護というより、狼のくせに心配性だ。

そう思って、リネットが小さく笑ったそのとき、音楽が止まった。

不自然な沈黙が、広間を一枚の薄い膜で覆う。

不思議と、人の気配が遠のく。

そこへ、セドリック侯爵が歩み出た。

穏やかな声。

だが目は笑っていない。

「まだ終わっていない」

その言葉だけで、空気ががらりと変わる。

「リネット。少しこちらに来てもらおう」

拒む間もなく腕を取られる。

強引ではない。むしろ丁寧だ。


だからこそ厄介だった。

逃げ道を塞ぐ方法を、礼儀の形を崩さずとも知っている手つきだ。

柱の陰に引き寄せられた瞬間、背筋が冷える。

「君は私の番だ。運命なんだ。幼い頃から決めていた。君を私のものにすると」

指が腰へ伸びる。

触れる直前で、リネットは息を止めた。

その瞬間、重い足音がひとつ。

次の瞬間には、セドリックの手首が強く握られていた。


アルヴァンだった。


黒い耳がわずかに伏せられている。

怒りを押し殺しているのが、よくわかる。

低い声が落ちる。

「離せ」

短い。けれどその一言に、周囲がびくりと反応するのが分かった。

セドリックは眉を上げる。

「私は彼女をずっと見守ってきた」

「黙れ。彼女は私の婚約者だ」

アルヴァンの指が、わずかに強くなる。

ゆっくりと、しかし確実に、その手をリネットから外させる。

「彼女が嫌がっているだろう」

短いが、重い一言だった。

少なくとも、リネットにとっては。


セドリックは笑う。薄い笑みのまま、言葉を積む。

「君は理解していない。彼女は守られるべきだ。囲われるべきだ。彼女にとって外の世界は危険なんだ」

その瞬間、アルヴァンの金色の瞳がゆっくりと細められた。

静かな殺気が、空気を変える。

「もちろん、守る」

低く、はっきり。

「だが、閉じ込めはしない」

決して追い詰めない。

けれど一度選んだ番は、二度と離さない。

それが、アルヴァン・エスリードという男だった。


セドリックが鼻で笑う。

「理想論だ。それでは守れない」

言葉が、滑るように続く。

「男爵家の立場を考えろ。後ろ盾を失えば、彼女はすぐに社交界で“餌”になる。だれが陰から男爵家を支援してきたと思う? 」

そこで、アルヴァンが一歩踏み出した。

「……理屈ではない」

アルヴァンの声は低く震えていた。

「あの夜、庭で君を見たときから、私は世界で一番、彼女を可愛いと思っている」

広間に、どこか上ずった声が響く。

理屈を積んでいた空気が、その叫びで一気に割れる。

アルヴァンは赤くなりながら続けた。

「愛しているんだ」

その瞳は、今はもう逸らされていない。

まっすぐ、リネットを見ている。

「……君に、選ばれたいと思った」

リネットは目を見開いた。

セドリック侯爵が唇を歪める。

「では、彼女の家はどうなる。この先、男爵家への配慮は打ち切るぞ」

リネットが一歩前に出た。

ドレスの裾が揺れる。

「私はもうエスリード侯爵家に嫁ぐ身です。私の実家のことは、父が考えますわ」

声は静かだったが、はっきり響いた。

「それに――たかがウサギ一匹に振られたからと言って、嫌がらせなど、されませんよね?」

セドリック侯爵の表情が初めて揺れる。

その瞳が、初めて気が付いたとでもいうように辺りを見回した。


周囲には、色々な獣人、色々な階級、色々な職とパイプを持った貴族たちが、興味深そうにこのやり取りを見ていた。


アルヴァンが静かに告げる。

「次に彼女へ触れたら、君の名は社交界から消えることになるだろう」

セドリックは聞こえるように舌打ちをひとつして、振り返らず、去っていく。


やがて音楽が戻り、人々のざわめきも戻ってきた。


「……ご存知? あれ、子どもの頃から、ですって」

「娘がいる家は、もう近づきたくないでしょうね」

「大人にご興味がないから独身なのかしら」

女性たちの声がわんわんとこだまし、男性たちは目をそらした。

なにがどう繋がって、妻から責められることになるか分からない。


「あの方、社会的にはもう亡くなっているようなものみたいですね」

「君の暴露でな。娘がいる貴族は多い。次は自分の娘が被害に合うかもしれないと考えると、仲良くはできないだろう」

「普通に嫌ですわね」

「今回でとどめを刺せて良かったよ。男爵家に手は出させない。君が選んだ道は、俺が守る」


リネットの耳に触れる手は、どこまでも優しい。

彼女の、オオカミの手だ。

「すまない。先ほどは、少し興奮しすぎて……余計なことも言ってしまったようだ」

不安げな声。

リネットは少し背伸びをして、アルヴァンの胸に額を預ける。

「あら。どれのことかしら」

「だから、その……あ、愛しているとか、あれは、本当はもう少しちゃんとした場所でしかるべき贈り物をしてから……」


リネットはふふっと笑い、頬に触れる大きな手に自分の手を重ねた。

「契約期間を変更しましょう」

アルヴァンがいぶかしげに聞く。

「どれくらいだ」

「一生分です」

ぴんっと耳を立てたアルヴァンの腕が、ためらいなく彼女を包む。

「もちろんだ」

低い声が、耳元で震える。その腕は力強いのに、どこまでも丁寧だ。

「アルヴァン様は、本当に可愛い方ですね」

「……言うな。君の方が可愛い」

黒い耳が、恥ずかしそうにぺたんと伏せられる。

それを見て、リネットは満足そうに微笑んだ。


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