第六十八話 陽炎
少しだけ時は遡る────
「……うっ」
内部が破壊された痛み。
それは見た目で判断できない以上、危険かそうでないかは経験からでしか分からない。
その点で言えば、カリストは数字持ちという年齢が若い割には恵まれた経験を持ち合わせていた。
(まずった……わ。一体どのくらい)
気絶していたのか。
腹部と背中に感じる鈍痛は片腕動かすのでやっとなほどだ。
今すぐ治療に入らねば、おそらく死に至るほどの。
故にカリストは己の腹に手を回そうとして、不意に顔を上げた。
視線の先。
そこでは黒い影を身に纏う狼人となったケンの姿と、黄金に赤を混ぜ、全身が、特に太ももと腕が大きく膨れ上がったリオが異次元の戦いを繰り広げていた。
目で追うことができない。
気付いた時にはその場に残るのは戦闘の爪痕だ。
斬撃、影の尾、入り混じる気の衝突。
そのどれをとっても、カリストは一手、いや二手・三手遅れて認識していた。
まさしく異次元。
今、この場でたとえカリストが全開であったとしても、戦いに参戦するのは無理だ。
遠距離からの援護であったとしても、無理だ。
この戦いに、カリストは介入する術を持たない。
その実力が、ないのだ。
「く……、そ」
絶対に負けない。
そう、あの場で神に誓ったはずなのに。
またしても自分は地面を舐めている。
ケンを守る為に、彼の先へ強さを高めていこうと、そう決心した矢先だったのに。
何度同じ過ちを繰り返すのか。
唇から血が流れる。
戦いの中でどうやら口の中を切ったらしい。
──いや、自ら切っていたのか。
悔しさに歯噛みして。
「認めない、わ。私は、弱い私を」
だって認めてしまえばそれは。
ケンに守ってもらうか弱い女であることを、許容する。
そんなことは許されない。
彼を守るために強くなった自分が、結局、そんな。
「いや……もっと強くなる、今は弱くて良い。だから、せめて」
だがこのプライドは、今必要ないものだ。
カリストはそう判断して、掠れる視界の中、ケンを、ケンにだけ集中して認識する。
リオの動きも一緒に把握しようとするから、認識がおかしくなるのだ。
カリストの実力ならば、ケン一人だけを認識することはできた。
「────私の、力が少しでも」
異次元に進む時。
人は一体何を見るのか。
カリストは渾身の力を振り絞り、漸く動く片腕をケンへと伸ばす。
細く拙い、その指先から淡い光が現れて──
—
「十倍────」
増幅された脚力は、跳躍の勢いを殺すことなくリオの速度を高める。
壁を、床を、天井を。
力と絶妙な調整で持って、都合十回の跳躍を持って放たれる渾身の一撃。
その一撃はまともに喰らわずとも、掠りでもすれば衝撃波で肉は削ぎ、骨は砕け、絶命を齎す。
文字通りの、必殺技。
「虎牙王拳!!!!!」
たった一撃でも、ケンは昏倒して倒れてしまう威力だった。
その十倍。しかも赤のオーラで強化されたリオの攻撃は、悉くを避けてきた。
つまり、リオの一撃は想像も出来ない破壊の技だ。
拳は絶対に避けなければならない。
認識をずらす影狼状態のケンであれば、容易にその攻撃を避けることも不可能ではないはずだった。
だが、幾度も打ち合ったことで、ある程度の癖をリオは見抜いていた。
それほどの実力差。
付属して、避けても衝撃波で破壊する技だ。
ケンに、それを回避する方法はなく。
「がっ──────」
真正面から、その拳を受けるに至った。
影はリオの拳で霧が張れるように吹き飛んで、その姿をより鮮明に表す。
腹部を腕が貫通し、吐血している。
間違いなく、殺した。
あとはこの垂れ流される血を回収するだけ。
そうリオが確信したその時。
「な」
ケンの姿は霧のように消えていった。
まるで──蜃気楼のように。
「こ、これは」
この光景をリオは覚えている。
少し前の戦闘でまんまと出し抜かれた女の──
「八番目ぉぉぉっっ!!!」
リオの怒号の先。
その先では力なく倒れるカリストの姿だ。
もう意識は失われ、生死の境を彷徨っていた。
だがその指先には確かに、術を行使した後が──
「影狼魂」
リオはカリストへの怒りで一瞬、たった一瞬だが気が逸れた。
故に遅れる。
──雑用は、どこに。
「激」
声の行方。
その先に、揺らめく影から姿を現したケンの拳には、空間の歪みと全身にまとわりついていた影が収束されていた。
全身よ動け。
今すぐ目の前の敵を殺すために駆動しろ。
その野生の命令に従い、リオは手足より先に牙をケンの首に突き立てた。
「ぁぁぁぁぁぁっっっ!!?」
振り抜かれる前に首を食いちぎる。
攻撃への気持ちが緩み、一歩でも下がればリアの勝利は確定する。
だが、だがケンは。
「うおおおおおおおおおおおおお!!」
痛みには、滅法強いのだ。
「震ぉぉぉぉぉっっっ!!!」
引くことなく、振り抜かれる拳はリオの胴を貫いて内部へと衝撃を伝える。
影の力で増強された震動の力は内臓だけではなく、骨も筋繊維さえも破壊して、リオの活動を強制的に停止させた。
リオは意識を失う最後まで、ケンの首から口を離さなかった。
—
「先生」
「……ケン君、か」
シムラは力なく壁に寄りかかっていた。
今ならわかる、彼が摩訶不思議な力でバンジャックを吹き飛ばしていたのは、彼の背中に生えている巨大な手がそうさせたのだ。
今もまだ透明化は解除されていないが、超音波でぐったりと地面に手が寝ていることがわかる。
どうやらその手を動かす力も残っていないらしい。
「君たちの勝ちだ。暫くすれば教会の人間が来るだろう。彼らが来るまでに実験が終われば、勇者の力でどうとでもなったんだが」
「先生。僕はずっと疑問でした。その問いかけをしましたが……改めて、聞きます」
「……」
諦めたように笑っていたシムラの表情が変わる。
真剣に、僕を見ていた。
「先生は、娘さんを生き返らせたかったんですか?」
「……かも、しれない。だが、勇者の誕生を願っていたのも本当だ」
観念したように俯いて、シムラはその気持ちを吐露していく。
覚醒した少女の勇者の力は絶大だったのだ。
その少女に最も近かった、シムラの怪我は、自ずと最も酷いものになっていた。
「悪魔が憎かった。娘が恋しかった……子供達が、教会によって無駄に殺されていくのが堪らなく悔しかった……この世界を、変えたかったんだ」
遠くを眺めるシムラの瞳は嘘を言っていない。
全てが真実の言葉だ。
だからこそ、少しだけ胸が苦しい気がした。
「ぼくは、今でも間違っていないと思っているよ。死んだものを冒涜したかもしれないが、彼らはそれでも望んでぼくについて来てくれた」
シムラの視線の先には、キメラ化した子供らしき肉塊が倒れていた。
この付近にはいなかったから、上の階から落ちて来たのかもしれない。
リオと僕との戦闘は相当激しかったのか、天井には穴が空き、空が見えていた。
どうやら演習場の偽物の空のようだが。
「間違えていない。君が、君たちが、いや世界がぼくらを否定しても、ぼくらだけはこの行いが正しかったと信じ続けるよ」
「構いません。それを承知での、ぶつかり合いです」
「随分と大人じゃないか。迷いは、晴れたのかい?」
シムラは優しい顔だった。
それは本当に、先生或いはブラザーとしての顔なのだろう。
僕を少しだけ見ると、柔らかに微笑んだ。
「愚問、のようだ」
「そうですかね」
「あぁ、聞くまでもない」
シムラは負けたのに、まるで憑き物が取れたように清々しい顔だった。
もしかしたらシムラも、止まるに止まれなかっただけなのかもしれない。
「あぁ、そういえば、君にひとつ聞きたいんだ。敗者への慰めと思って答えてくれるとありがたい」
「なんですか?」
「君はなぜ、第一支部に? まさか、本当に雑用目的で採用されたわけじゃあないのだろう?」
その疑問は、随分前からシムラが抱いていたものだ。
正直に言えば、僕自身一番気になっているところでもある。
だがまぁ、当初の理由は忘れようもない。
「僕が祈祷術の適性Sだったんですよ。シスターの言葉を借りるなら、全然才能の花は咲かなかったですが」
今更適性など出て来たところでどうにもならない。
もう僕は悪魔付きとなってしまった。
その身で祈祷術など使えるわけもないだろうし、使う気も起きない。
だから。
だから、シムラのその顔は。
「なん、だって」
あまりにも予想外で、驚愕するシムラの表情に、僕も驚いた。
「祈祷適性が、S? なのに、その力が覚醒していない……? そんな、まさか。そんなことは! まずい!」
シムラは僕の肩を掴んだ。
死に体とは思えない強い力で思わず顔を歪める。
「今すぐ逃げろ! 教会がそのことを知れば君はただじゃ済まないかも知れない!」
「な、何を」
「教会が魔殺しの子供達を作り出したのは、勝手の良い使い捨てのコマ、それだけじゃない! 純粋で魔力が高まった幼い体というのは悪魔の好物なんだ! つまり……えっと、だな」
シムラは混乱するように頭を掻く。
混乱しているのは僕も同じだ。
シムラが一体何を言いたいのか──
「つまりだな! 多くの子供を犠牲にした理由は、取っ替え引っ替えをすることである力を────」
「喋りすぎだ」
刹那の瞬間だった。
天から黒い大剣が落ちて来て、シムラの胴体を貫いたのは。
「研究者という生き物は、どうやら自身が死ぬその瞬間まで知識欲が消えないらしい」
剣と同じく、天からふわりふわり舞い降りるのは身の丈に合わない法衣を来た子供だった。
長い帽子は少年の眉まで隠しそうなほど深く被られ、金の刺繍は多くの十字架を縫い付けている。
鋭く怒った瞳だけが露出して、僕らを威圧する。
「シムラ先生!?」
「さて、第一支部の生き残り。一番目、八番目……それと、悪魔憑きの雑用? だったか」
「お前、いったい誰なんだ!」
僕の言葉にかけらも反応を示さず、彼は告げた。
「お前達をエルバハ共和国、天魔教本部へと連れてゆく。拒否権はない」
「話聞けって!」
僕は思わず狼化して、少年に飛びかかった。
その時初めて少年の瞳が僕を向き、同時に。
「がっ」
僕の胴を白い大剣が貫いた。大剣の勢いに任せて僕は地面に縫い付けられ、苦しさに視界が霞む。
消えゆく意識の中で、少年は告げた。
「ボクは次期大司教、モラル。君らを預かる、次の上司だよ」
これで第3章終わりとなります!
そして悪魔憑きは一旦幕引きとさせてもらいます!
理由はXの方で更新させてもらいます。
今までご愛読、ありがとうございました!
次回作にご期待下さい!